5)モービルハムの登場(2)

[モービルの条件揃う]

昭和38年(1963年)のころ集まったモービルの車

昭和33(1958年)のサラリーマンの平均月収は34,000円であったが、3年後の36年(1961年)には45,000円へと30%強も増えた。この年には地価が前年比43%上昇した。カラーテレビ、クーラー、カーの「3C」が庶民の購入対象といわれたのは昭和41年(1966年)であるが、1部の裕福な家庭では30年半ばにはマイカーを所有し始めていた。

さらに、NHKテレビ放送の人気番組「ハイウェイパトロール」が、モービルを促進したといわれている。高速道路が増加し始めた米国の高速道路を警備する警察隊の物語であるこの番組では、通信機で交信する歯切れの良い言葉がなんとも“かっこよかった”からである。

戦前の日本では、一般庶民が個人で車を持つ時代がくることは想像できなかった。戦後の昭和20年(1945年)代にも、マイカー時代を予想する人は極めてまれであった。モービルは、車とアマチュア無線免許の2つのステータスと、ドライブの楽しさ、交信の楽しさを満たす要素をふんだんにもっていた。

車とアマチュア無線の両免許、ドライブと交信の楽しさ。いかにも遊びの要素が多いモービルであるが、普及に取り組んだ石川さん達は「モービル通信」の条件整備に奔走する。50MHz機を車に積みこみさえすればそれで良いとは考えなかった。あくまでも「アマチュア精神」を維持することを強調したのである。

[米軍放出品の利用]

多くのハムがモービルとして使用した米軍のRT−70

石川さんが車に載せたのは米軍払い下げの通信機RT−70であった。このころはそのほかRT−66、67、68やPRC−6、7、8、9、10、さらにBC−1335、VRC−2、FRC−20などの米軍仕様の通信機がモービル用に使われた。太平洋戦争に勝利した米軍は、GHQ(駐留軍)の中心として日本に駐留してきたが、豊富な軍備力を見せつけ、通信機でも圧倒的な技術力を誇っていた。

戦後、アマチュア無線の再開が許されなかったころから、米軍のハムは国内外と交信をしており、戦前の日本のハムや新たにハムになろうと意気込んでいた若者にとっては、うらやましい存在であった。昭和27年、アマチュア無線の再開が許されると、米軍の放出品を買い漁り、自作の部品などに活用していた。なかでも、HF機と比較して自作の難しい50MHz機では米軍品をそのまま利用するのが一般的であった。

そのころの「会報」によると、自作のモービル機を載せていたのは16%程度であり、36%がRT−70を17%がRT−66か67を使っていた。米軍放出品を使用したのは自作の難しさのほか、常に振動を受け、温度変化も激しい車内という過酷な条件下では、軍用車で使われているこれらの通信機が無難なためであった。また、放出品であるために比較的手に入れやすい価格でもあった。

[石川さんの挑戦]
幅広く活用されたRT−70の出力は0.5Wの小出力。石川さんは「RT−70を積んで走ったものの、自宅と通信できたのは毎日の行動範囲の半分にもならなかった」と、記している。そこで、2E24管のプッシュプルでブースターを作り実験する。当初、石川さんは54MHzで通信したが、この周波数ではRT−70単独使用でのTVIが発生しないものの、ブースターをつなぐと問題が起こることがわかった。

わが国のテレビ放送は昭和28年(1953年)2月に開始され、昭和34年(1959年)の今上天皇陛下のご成婚の折りには受像機需要がピークを迎えた。もちろん、当時のテレビ放送は白黒画面であったが、アンテナ、引込み線、受像機そのものも外部からの電波妨害に対しての排除能力が低かったのも原因であった。


JMHCが制作したQSLカード

石川さんはTVI対策の面からも51MHzがモービル通信にふさわしいと判断する。さらにもう一つの理由もあった。「JARLがPRC6を非常通信用に数台購入し、51MHzをチャンネル指定した。モービル局も非常時に何らかの手伝いができると判断した」という。このため、石川さんも「51MHz、FM波をモービルハムのものにしよう。移動中のモービル局に対して、常に優先使用権を与えるような風習を作っていただきたいと思う」と提案する。

[アマチュア精神を訴える]
石川さんの考えは、51MHzをモービル局が独占するというものではなかった。「会報」のなかで、石川さんは「モービル局が皆で51MHzを共有するためには」QSOはなるべく短く、ローカル同士や近距離はブースター無しで運用し、音楽を流し続けることはやめて欲しい、と提唱。また、TVI調査の注意点まで触れている。

柴田さんも同様であった「20年前の移動局も、時速80kmで飛ばしてからQSOする現在もアマチュア精神という点から見れば同一。一朝有事の際、OSO通信に参加する精神に変わりない」と書いている。20年前とは柴田さんが56MHz機をモーターボート荷積み込み、実験していた時のことであるが、当時も一朝有事の国防への協力が目的であった。

昭和34年(1959年)から35年(1960年)にかけて、会員数は20名弱であったが、月を追うごとに会員が増加し、モービルコンテストも始まった。36年(1961年)になると、ミーティングや「遠乗り会」が毎月のように開催されるようになる。「遠乗り」とは、目的地を決めて車を連ねてドライブを楽しみつつ、また、途中や目的地からの交信を楽しむことであり、モービルハムの専用語のようになっていった。