11)村松さんの活躍(2)

[自作の苦労]
「HAC」を完成させる過程でも、その後でも村松さんはより効率の良い受信機作りに力を入れている。「1−V−2から2−V−2へと代えようとしたが、ハイGMの真空管6AC7が手に入らず悔しい思いをした」と言う。村松さんは「適当な測定器がなくIFやバンドパスの調整に自信がない」ために、スーパーやダブルスーパー受信機作りは避けていた。


「CQ誌」に投稿・掲載された村松さんのレポート

一方、アンテナは「同軸ケーブルが手に入らないためにロングワイヤーアンテナのみであった」と言う。村松さんの家の土地は間口が4間、奥行きが25間で、裏には小山のような森があり、20mや30mのワイヤーを自由に張れた。「人目のない時にこっそり張った」らしい。さらに、何とか高くしようと探しまわっていると、工事現場で10m近い足場用の木材が見つかった。

「オジイチャンちゃんの加藤さんに手伝ってもらい夜明けに、運び込むことになった。赤い布を片端に取り付け、前後をそれぞれの自転車に縛り浜松市内を運んだ。若い者は何をやるかわからない」と、村松さんは苦笑している。CQ誌、無線と実験、電波科学、電波技術などの無線誌への投稿も増え、村松さんの名前は全国に知られるようになる。

読者の一人であり、当時浜松クラブのメンバーだった鈴木澄男(JA2IK)さんは、クラブ50周年に際して、そのころのことについて触れている「そのころDXのページには、浜松の村松さんという人が毎号世界各国の珍しい短波局をベリカードとともに紹介していることがわかり、親しみをもって読んでいた」と。

[第1回国家試験]
昭和26年6月に行われた第一回の試験では浜松クラブから5名の第2級アマチュア無線技術士の合格者が生まれた。全国の2級受験者は197名、合格者59名。浜松クラブは受験者全員の合格であり、全国にあるクラブの中でもレベルの高いクラブとして話題となった。ちなみに合格者の名前を記すと市川康平(静大生)、河村 孝(浜松北高生)加藤武雄(ラジオ修理業)安田篤弘(浜松北高生)谷下沢一男(国鉄勤務)さんらであった。

高校生が2名含まれているが、当時の高校生のアマチュア無線熱は高かった。村松さんもしばしば静岡、浜松の高校生が自作機でC2、C3などのコールサインで10W程度のアンカバー電波を出しているのを聞いている。「C2、C3はチャイナ(中国)のコールサインに似せてのいたずらと思うが、静岡地区では一斉検挙が行われ何人もの高校生がアンカバーで捕まり、その後彼らは免許申請が一時保留された」と、村松さんはそのころの状況を話してくれた。

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「アマチュア2級無線技術士生る!」を伝えたJARL浜松クラブ報第2号

ちなみに、5名の合格者のその後に付与されたコールサインと、職業を記しておくと市川(JA2CY)さんは中部日本放送(CBC)河村(JA2IX)さんは静大工学部を経て三菱電機、加藤(JA2BD)さんはラジオコンサルタント、安田(JA2NR)さんは静大工学部、東芝へ。谷下沢(JA2BH)さんは国鉄通信区勤務となっている。

[熾烈な開局競争]
この年、昭和26年(1951年)にはわが国のラジオ放送界でも画期的な動きがあった。前年の「放送法」制定を受けて、民間ラジオ放送が始まった。8月には「日本短波放送」が開局し、9月1日には名古屋の中部日本放送(現CBCラジオ)と大阪の新日本放送(現毎日放送)が開局した。CBCにはやがて村松さんが勤務することになるほか、開局時には戦前のハムである田中信高(戦前J3DI)さんが活躍しているため、しばらく開局時の様子を書いてみたい。

「放送法」の成立後、事業として成り立つかどうか不明のラジオ放送事業に全国から多くの申請があった。そのなかで中部日本放送と新日本放送が開局1番を争った。新日本放送は、7月8日に試験電波、8月15日にサービス放送を開始して中部日本放送に勝ったが、本放送開始の9月1日には数時間の差で中部日本放送が勝っている。

中部日本放送は早朝に放送を開始したのに対し、新日本放送の放送開始は正午からであった。中部日本放送は当初、26年1月1日の開局を目指していたが、準備に手間取り計画は何度も遅れる。これは他の申請局も同様であった。とくに、送信機作りが難しかった。中部日本放送はその送信機の設計を日本電気(現NEC)の田中信高さんに任せている。

[米軍無線技術者が驚嘆]

中部日本放送の最初の「JOAR」ベリカード。昭和26年

田中さんは明治42年(1909年)生まれ、昭和5年にアマチュア無線免許を取得し、日本電気に入社の年に局を廃止している。田中さんに設計責任者を託したのは、中部日本放送の開局準備責任者で後の社長・会長になった小嶋源作さんであった。小嶋さんは後に発行された「CBCとともに」のなかでその理由を書いている。

それによると、太平洋戦争末期に台湾に上陸した米軍は嘉義にあった放送局の送信機の技術力に驚き、製作した田中さんの名前を知る。終戦後、米軍無線技術者はすぐに日本電気に田中さんを訪ねたという。小嶋さんはこの話をGHQから聞いていたため、開局に当たっては迷うことなく日本電気に送信機を発注した。小嶋さんによると、開局を前にして主要部門の責任者は「1カ月も2カ月も家に帰らず、スタジオに寝泊りし連日徹夜に近い作業を続けた」と記している。

後に、中部日本放送に入社した村松さんは、その田中さんに何度か会う機会があった。昭和30年(1955年)31年(1956)年にかけて、CBCはテレビ放送用機器の大半を日本放送に発注した。そのころテレビ放送機器を担当していた村松さんは日本電気に田中さんをしばしば訪ねている。