14)村松さんのハム生活(3)

[人気だったBCI]
初交信後、村松さんは毎日4局から8局と交信、月に150局程度と通信をした。「まだ、国内の局数が少なく、また、試験電波中の局も多かった」と言う。このころの村松さんについての逸話がいくつかある。浜松地区のローカル局とは毎晩のようにラウンドQSOしたが、ハムを目指していた後輩もそれを熱心に聞いていた。

実は聞いていたのは後輩ばかりではなく、町内の家々でもラジオ受信機で聞いていたらしい。当時のラジオは「並4」や「高1」と呼ばれる選択度の悪い物が多かった。このため、村松さんらの交信はラジオ受信機に混入し、ラジオ放送が受信出来なくなるBCI(受信障害)を与えていた。

対策として、送信機のシールド、アースの不良を直し、アンテナもマッチングをとるようにした。その一方で、町内の家々を回ってラジオ受信機の調整や対策をしたが、普段から親しい付き合いの多い関係から、苦情はそれほど無く「このままで結構です」という家も多い。「時々、おもしろい話題や下手な歌を聞かせてもらっており楽しい」と言われてしまった。

[純日本調カード]
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村松さんの「日本調カード」は好評だった

次々に新しいことを考え出す村松さんらしくQSLカードにも工夫をした。誰もが全く思いつかないアイディアであった。形式を全て縦書きの純日本調とし、受理番号、交信時間、波長、了解度、無線設備の事項の数字も漢数字を使用して「交信証」と銘打ち、最後に「右之通相違無之御座候」と締めくくっている。

このカードは好評であり「SWL仲間にも飛ぶような売れ行きだった」と言う。もちろん、日本国内でしかわかってもらえないカードである。コールサインももちろん縦書きであるが、SWL時代に使った「みどり」のペンネームをサインする時もあった。

[JA2ACの偽者]
村松さんがまだSWL時代の1951年11月28日16時35分にJA2ACと交信したとのカードが、QSLカードの転送サービスを行っているJARLのビューローに送られてきていた。村松さんは「そのカードがいつごろビューローに届いたのか知らないが、当然のことながら私に転送されてきたのはJA2ACになってからのこと。結局、真相はわからなかった」と言う。

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村松さんの偽者と交信したカードが南アフリカ共和国ポートエリザベスから届いた

わかっていることは、当時米国の全州で2ACの電波のRSTは599であったため、米国のFCC(連邦通信委員会)も驚き、日本の郵政省にも問い合わせがあったという。村松さんの推理は「戦後のある時期、日本駐留の米軍人はJAのコールで交信していたが、講和条約が締結され米国に帰った軍人が昔を懐かしみJA2ACを使ったのでは・・・・」というものである。

[花の静大・29栄会]
村松さんは、とくに海外との交信には興味をもたず、増えつづけていた国内のハムとの交信を楽しみながら、むしろ送受信機の改造に熱中していた。徹夜で機器を組立てる日も多く、そういう日は登校してもキャンバスの緑の芝生で昼寝をすることが多い。授業は仲間が代返をしてくれていた。ところが「いつも同期の機械科の仲間が昼寝の邪魔をした」と言う。

「同じように授業をさぼった彼らは菜っ葉服を油で真っ黒にして、二輪車を分解したり試走させている。バリバリ、ブォーンとものすごい爆音。ゆっくり寝てられなかった」らしい。その仲間には内山久男、久米是志、原田隆夫らがおり、いずれも後にスズキやホンダの役員になったバイクきちがいだった。

彼らはそれぞれの会社で世界のオートバイ業界をリードするようになるが、村松さんらの電気科でも優秀な学生が多かった。「アイウエオ順で村松の名前の前後だけでも宮田博夫、幸實、横沢文男などがおり、それぞれ静岡放送、シャープ、浜松ホトニクスで役員になった同期生だった」このため、村松さんら昭和29年(1954年)卒業組みは「花の静大・29栄会」といわれている。

[卒業研究・就職]
昭和28年(1953年)村松さんは大学4年となり卒業研究に「テレビ受像機における偏向回路の考察」を決めた。わが国のテレビジョン放送はこの年にNHKと日本テレビジョン放送網が、それぞれ東京で本放送を開始したが、もちろん浜松ではテレビ受像機の販売はされていなかった。国内でブラウン管の生産が始まったのはこの後であるため、当初ブラウン管は輸入品が使われた。

受像機はもちろん、ブラウン管も手に入らないため村松さんは撮影に使われる撮像管のビジコンを使用して実験を行った。「まさに時代の最先端の実験であり、電子工学研究所の西田亮三(戦前J2LV)先生の研究室、横沢文男君の研究熱に“おんぶ”して何とかまとめることができた」と言う。ちなみに横沢さんは卒業後、空いた村松さんの部屋を住まいとしたため「私の両親の面倒まで見てくれた。親友とはかくもありがたきもの」と村松さんは今でも感謝している。

この年、昭和25年(1950年)に始まった朝鮮戦争が休戦となり、戦後のわが国産業・経済を回復させた「戦争特需」が無くなり、不況が訪れた。このため「どこの会社も採用人員を減らし就職難であった」ことを村松さんは記憶している。その中で、浜松高工の伝統を引き継いでいた電気科の卒業生はあまり困らなかった。やがて全国的に始まるテレビ放送を前に、放送局やテレビ受像機生産を目指すメーカーの採用は盛んであった。