15)村松さんのハム生活(4)

[君、そちらの方へ行きなさい]
村松さんは、マスコミ志望ではなかったが名古屋の中日新聞社を受験し、最終面接に残った。席上、社長は「君はどこか別な所を受けているのか。なに、CBCの役員面接を済ませているのか。ちょっと待て」と言い、その部屋の電話の受話器を取り上げてどこかと話をし始めた。しばらく話をして電話を切ると、村松さんに向かい「君、放送へ行きなさい」とあたかもCBCが採用を決めたように断言した。

村松さんは「電話をした相手はCBCだろう」と察した。中日新聞社はCBCの親会社であり、テレビ放送開始直前のCBCがテレビ工学を勉強した学生を欲しがっていることを知っていた。両社のトップ同士の話し合いで決着した就職であるが、村松さんは「実際の社会とはこんなものか」と、びっくりしてしまった。

一方、テレビ受像機を生産するメーカーに就職した同期生はやがて悲喜こもごもの人生を歩むことになる。受像機メーカーは大手、中堅、中小、さらに町のアマチュア技術者の起業と、社数はつかめないほどの数に達していく。やがて激しい販売競争の結果、資金力の無い中堅、中小はもちろん、大手といわれたメーカーの中にも倒産や生産からの撤退が多かったからである。

[名古屋へ]
昭和29年(1954年)2月、スーツ、靴、かばん、下着を詰めこんだトランク1つを持って、村松さんは名古屋市に旅だった。浜松、名古屋間は100Km足らずの距離であるが、新幹線が開通されていない当時は生まれ育った浜松を離れるとなるとやや感傷的になる距離でもあった。「ふとんはチッキで送った」と言う。


村松さんのシャックは雑誌にも紹介された

チッキは今は死語になってしまっているが、宅配便の無かった時代の国鉄時代のシステムであり、荷物が乗車した汽車と一緒に下車駅に着き、窓口で受け取ることが出来るシステムであった。配達をしてくれる鉄道小荷物とは異なり、下車駅ですぐに使う大きな品物を送るのに便利だった。チッキは荷物の預り証の「チェック」が訛ったものといわれている。

名古屋への旅立ちは卒業を前にした時期だった。CBCからは「卒業のめどがついたら一日でも早く仕事に慣れるように」と言われていたためである。浜松を離れる時、村松さんは「もうアマチュア無線はやるまい。これでおしまいにしよう」と、シャックを封印した。「少しも未練はなかった」と言う。

[WAJA]
「少しも未練が無い」という理由は2つあった。JARL主催のアワードである「WAJA」でトップ申請を果たしたことと、浜松のハム仲間とは最後のラウンドQSOをやり終えていたからである。WAJA完成の申請は前年、昭和28年(1963年)12月24日のクリスマスイブの日。この日の正午、村松さんは45都道府県のQSLカードと佐賀県の秀島照行(JA6CO)さんから送られたばかりのQSO電報を持って上京した。

当時の46都道府県との交信に与えられるWAJA(ワークド・オール・ジャパン・アワード)の制定が発表されたのがこの年の春。村松さんがWAJAに挑戦することを決めたのは夏ころだった。「大学生活もあと半年。名残にWAJAに挑戦しよう」と決断した。その時までのカードを調べてみると、完了した都道府県は35。残りは11だった。

完成に向けての想定は「ハムの居ない県がかなりあり、今後は1県1県完成させることになる。したがって出力の小さい2級局でも1級局でも同等」と分析。しかし「7MHzの免許では3.5MHzや14MHzでの相手は出来ない。さらにCW(電信)の場合も難しい」と不利なことが思い浮かぶ。

[就職活動での空白]


WAJA達成のためにライバルの出田喜一郎さんにも協力を依頼した。出田さんは素晴らしいシャックをもっていた。出田さんのシャックとQSLカード

さらに「多分、最後に免許が下ろされた県の局との交信が勝負になる。そうなるとその県のローカル局が有利」と予想しながらも「しかし、最後に免許されるほどの県であるからその県の競争相手となる局の数は少ないはず」と、さまざまな思いに駆られた。秋、村松さんの交信県は40県になった。が、その後の就職活動に時間がとられて空白ができてしまっていた。

就職が決まった12月の初め「長い間忘れていたWAJAのことが急に気になってきた」と言う。ハムの居なかった山形、青森にもハムが誕生した。「恐らく43県から45県を完成したライバルが10人、20人に増えているだろう」と、村松さんはあせり始める。「ライバルの情報が全くわからない」ながら「ようやく完成した43県のカードを無駄にしたくない」と、再び挑戦開始。

12月の上旬から中旬にかけて村松さんは必死の思いで山形、青森の局と交信に成功する。最後は佐賀県。12月13日村松さんは佐賀の秀島さんの試験電波を受信、スケジュールの了承を得る。翌14日には仲間の応援を得て約40mのアンテナを張り、最後の勝負に備える。と、同時に村松さんは綿密な作戦を構想した。

[綿密な戦略]
まず、秀島さんの本免許の日をつかむために九州電波監理局免許部、熊本の出田喜一郎(JA6AE)さん、秀島さん本人の3カ所から免許の日を電報で連絡してもらえるよう手配。また、それによって自動的に交信のスケジュールが進められるようになっており、交信終了はQSL電報、速達によるカードを送ってもらい、QSL電報が届いた時点ですぐにそれを持って上京して申請する作戦であった。