26)生涯をハムで(2)

[平成14年]
この年、JARL浜松クラブが創立50周年を迎えたことは先に触れている。村松さんはこの時の感想として「数々の変遷をたどりながら今日まで隆盛なのはうれしい」と発言している。50周年を記念するため、浜松クラブでは過去の資料、その後の経過などを綿密に調査、集計をディスクに収めた。村松さんはそれと平行して当時の“生残りハム”による「思い出を語る会」をもった。

参加したのは市川康平(JA2CY)さん、神谷昭七(JA2GD)さん、守屋俊威(JA2EY)さん、山本輝子(JA2JX)さん、加茂耕作(JA2LJ)さんであり、それに現在のクラブメンバーが加わり、お互いの少年時代に若返り、話は広がっていった。さらに、鈴木澄男(JA2IK)さん、木俣省英(JA2IY)さん、渡辺一弘(exJE1KRX)さんらは紙上参加のためのレポートを送っくれた。

[鈴木さんの思い出]
50年の歳月の経過は当時の若者を定年過ぎの高齢者にしてしまった。それだけに便りを寄せた元会員の文章は懐かしさに満ちたものが多い。鈴木澄男(JA2IK)さんは中学2年生で鉱石ラジオを組み立て、高校2年生でマジックアイ付きの2バンド6球スーパーを自作し、昭和28年(1953年)10月に2アマに合格するまでの経過。さらに自作の回路を紹介し、落成検査の模様、その後のハム生活などを長々と書いている。

この文章を読んでいると戦後にアマチュア無線が再開され、初期にハムになった若者の躍動的な活動、心理などが良く分る。交信した同じクラブの会員の紹介も楽しい。先輩ハムが後輩ハムを大事に指導してくれた話しや、周辺の家庭にBCIが起きてもとげとげしくならない世相など「古き良き昔」の話で埋っている。

鈴木さんは昭和31年(1956年)に1アマの免許を取りながら、しばらく無線の世界から離れている。「そうこうしているうちにハムの世界も進化が著しく、自作機器や開拓精神、DXでじっくり話す素朴な世界とは違ったものに変ってしまい、あいまいな取組みのまま今日までだらだらと来てしまった」と記している。

そして、最後に「今は懐かしさとはかない夢が混ざり合って、意欲はあるのですが不整脈が高じてペースメーカー装着の身となり、送信機の扱いはドクターストップがかかって、何とも情けない状態です。でも受信機はよく聞いています」と結んでいる。

[木俣さんの思い出]
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木俣さんも50年前の思い出の記を寄せてきた

木俣さんは「半世紀近く前のことで記憶も定かではありません」と前書きして、17歳の浜松北高在学時代に2アマに合格して以来の事柄を簡単に記している。昭和32年(1957年)に1アマに合格「A1でDXを楽しんだ」といい、さらに「若いころに体で覚えたことは一生忘れないというが、トンツーなど40年間使っていたことがないのに今でも忘れていない。不思議なものである」と感心している。

木俣さんは「オンエアするのは2年に1回くらいである。珍局の部類に属するかも知れない。どなたか交信に挑戦してみてください」とユーモアで締めくくっている。鈴木さんと木俣さんはともに静岡大学時代に毎晩のように話しをしたが、後に二人とも放送界で仕事をすることになり、後年日本テレビの木俣さんにCBC東京支社時代の鈴木さんが国会の仕事場で遭遇している。

[渡辺さんの思い出]
渡辺さんも戦後の学生改革に遭遇し、旧制中学―新制中学―新制高校と6年間を同じ学校で過ごす。旧制中学1年の時にラジオ少年となり、村松さんらと知り合ったことに触れ、それが「私のハムライフの非常に大きな原因となっています」と書いている。JARLのSWLに登録し、受信レポートを送り続けたことを記し、返信がもらえない海外局宛では「名前の前にMissと入れ、姉ちゃんの写真を同封したらカードが返ってきたなんて話もありました」と、裏話を披露している。

渡辺さんは浜松を離れ、就職してからは転勤の連続で無線とは疎遠になったが、九州支店勤務時代に「熊本営業所の社員がヨルダンのフセイン国王と交信し、地元の新聞に取り上げられたのを見て火がつき」試験を受けて昭和46年(1961年)7月に開局している。JE1KRXはその後横浜に移ってからのコールである。

[平成15年]

村松さんの50年展のコーナー。原JARL会長も祝福した

この年の3月は村松さんがアマチュア無線を初めて50年の節目であった。「仕事で思うようにQSO出来なかった年もあったが、免許を一度も切らすことなく継続できた」ことを喜んでいる。6月には愛知支部の大会が名古屋市公会堂で開催されたのを機会に、村松さんは「JA2AC50周年展」開いた。開局当時のTX、その後購入したRX、手書き申請書など、現在では見れないものを中心に出品した。

また、この年には村松さんは「よみうりアワード全日本一万局」を完成させて申請した。この時に村松さんは「達成させるためには周辺とのマッチングが大切なことを実感した」という。「本人自身についてはまず健康、そしてチャレンジ精神、取り巻く周辺に対しては仕事、家庭、友人、地域との融合、そしてやはり経済面。どれ一つかけても達成できなかったろう」と振り返っている。


村松さんは50周年を記念したカードを作った

「よみうりアワード」授賞式が行われ、祝辞では「1日1局、1年で365局とすると30年かかります。そのような努力をされた方々が本日何人もいらっしゃる」という話しがあった。村松さんはそれを聞きながら「私は50年もかかりました、とつい言いたくなった」と言う。