わが国のというより、世界のテレビ放送の歴史において大きな役割を果たしたのは、前回掲載のアンテナの八木秀次さんと、今回掲載の受像機の高柳健次郎さんである。テレビ放送は、映像を撮影しこれを電波に乗せ送信・受信し、受信した電波を映像として再生するという流れになるが、その基本となるアンテナと受像機において2人の日本人技術者が大きな役割を果たしたことが、今日の“エレクトロニクス立国日本”の源流となっているのである。高柳健次郎さんは、1899年(明治32年)1月20日、静岡県浜松市生まれる。

「無線」との出会いは、小学3年生の頃、学校に海軍の水兵がやってきて見せてくれたモールス信号のデモに感銘したことだった。また、高柳さんが13歳の頃に起こったタイタニック号沈没事件では、米国の一無線技師サーノフ(後のRCA社長)がこの惨事を無線でキャッチし、これを全世界に無線で伝えたことを新聞記事で知り、これが高柳さんを「無線」に強く結び付けていく。そして、1918年(大正7年)東京高等工業学校(現東京工業大学)入学、本格的にエレクトロニクス技術者としての道に進むこととなる。 1921年(大正10年)同校卒業後は、神奈川県立工業学校の教諭となる。

「無線遠近法」を着想、テレビの概念を確立

高柳さんは、その頃、「電話で声が伝わるのならば、映像も伝わるのではないか。そしてラジオ放送が遠くから無線で声を送れるのだから、映像だって無線で遠くへ送れるのではないか」と考え、それを「無線遠視法」と名づけた。このときテレビの概念を確立したといえる。その後、1924年(大正13年)浜松高等工業学校 (現静岡大学工学部) 助教授に就任する。この頃から本格的にテレビの研究を始めた。画期的だったのは、当時研究が始まっていた機械式でなく、電子式によるテレビ開発であり、現在のテレビの原型となった。受像機には、当時物理の測定器に使われていたブラウン管の利用を思いついたのだった。そして有名な「イ」の字をブラウン管に表示することに成功する。

送像側にニポー円盤、受像側にブラウン管を用いた送受信システムだった。高柳さんは、当時の世界のテレビ開発が機械式主流だったのに対して、絶対電子式だけが成功するとの固い信念を持っていた。そして、その後も電子式でのテレビ研究を続け、1928年 (昭和3年) には、東京で動く被写体の受像デモンストレーションに成功する。なお、高柳さんが初めて作ったテレビ受像機の復元品が日本ビクター横須賀工場にある記念館に展示されている。また、同一方式で送受信を再現する展示はNHK放送博物館に展示されている。

テレビの原点となった「イ」の字の送受信

テレビ研究が前進したきっかけとなったテレビジョン天覧実験

高柳さんのテレビ研究が大きく前進したきっかけとなったのがテレビジョン天覧実験だった。1930年(昭和年5)、天皇陛下が静岡に来訪された時に、ブラウン管によるテレビジョン実験が行なわれた。高柳さんは、これを機会に教授に昇格するとともに「テレビジョン研究施設」としての予算が計上され、大勢の研究員が加わることを認められるなど研究体制が一気に強化された。その成果が早くも現れ、1932年(昭和7年)には浜松市で走査線100本の画像の研究用実験放送が行なわれた。まだ、浜松高等工業学校からの電波を郊外で受信するといった程度だったが遂に電子式でのテレビ放送の送受信に成功したのである。

プロジェクトチームの原型を築いた高柳さん

今では研究や技術開発、商品開発などにおいてプロジェクトチームを結成し開発に当たるのは当たり前になっているが、以前は1人の天才科学者が独自で発明するといったことが普通だった。しかし、技術的により高度なものが要求されるに従って1人の天才的技術者だけではだんだん難しくなっていった。例えば第2次世界大戦における原子爆弾を開発した時の「マンハッタン計画」、最近ではロケット技術などの「宇宙計画」などは大勢の科学者、技術者が集まってプロジェクトチームを組んで開発に当たっている。むろんチームリーダーとして天才科学者がいたが、1人だけではどうにもならない面があった。そして高柳さんの電子式テレビの開発もまたプロジェクトチームの成果だった。

1935年(昭和10年)に浜松高工式アイコノスコープによる撮像管とブラウン管を用いた、走査線220本の全電子式テレビジョンが完成した。後に、高柳さんは「このアイコノスコープの共同研究は、わが国の産業技術の研究開発史上おそらく最初の、短期間に実質的な成果につながったプロジェクトチームと言ってよいのではないかと思う」と語っている。プロジェクトチームの活躍という点ではNHKが放送した一連の「プロジェクトX」が有名だが、その原点は電子式テレビ開発における高柳さんのプロジェクトチームである。そして、戦後の日本経済発展を支えた様々な技術開発の原点がそこにあるといえよう。

テレビの研究に没頭する高柳さん(静岡大学テレビジョン技術史より)

日本初のテレビジョン公開実験に成功

1940年(昭和15年)に東京オリンピックの開催が決まった。そこで東京オリンピックのテレビ中継が行なわれることとなった。まだテレビ中継の技術が確立されていない時代だったため、テレビの研究で最先端を行っている高柳さんに白羽の矢がたった。高柳さんは1937年(昭和12年)、NHK技術研究所にテレビジョン部長として出向することとなる。浜松高工の研究員20名を引き連れ、他に加わった技術者や新採用の人員等総勢190人余のスタッフが集まりプロジェクトチームが結成された。

しかし、残念ながら、日中全面戦争突入など国際情勢緊迫で、1938年(昭和13年)になって、東京オリンピック開催の返上が決定され、テレビ中継計画も取り止めになってしまった。だが、その後も研究を続けた高柳さんたちのプロジェクトチームは1939年(昭和14年)にはNHK技研の高さ100mの鉄塔から東京一円に電波を飛ばす、日本初のテレビジョン公開実験に成功したのだった。しかし、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発。テレビ研究禁命令が出されてしまう。そして高柳さんも海軍技師としてレーダーや電波兵器の研究に徴用されることになってしまったのである。

日本ビクターに入社しテレビの研究を継続

やがて終戦となり、高柳さんはNHKに戻ってテレビの研究を再開する。そこでプロジェクトチームを組んで研究することを考えていた高柳さんは、海軍で一緒に研究をしていた30数人をNHKに採用することを決めていたのだが、GHQから軍部の仕事に従事していた者の公共事業への就職禁止を通告されたためNHKでのテレビ研究は不可能となった。そこで高柳さんは、1946年(昭和21年)に技術者20数人とともにテレビの研究に力を入れていた日本ビクターに入社することとなった。日本ビクターに入社した高柳さんは、そこにいた10人ほどのテレビ研究者と合流、テレビジョン研究部長としてプロジェクトチームのリーダーとなって研究を再開する。日本ビクターといえば、NHKの「プロジェクトX」における家庭用VTR「VHS方式ビデオ開発“陽はまた昇る”」がすっかり有名になったが、その原型が早くもテレビ開発にあったのである。

両雄対決の場面がやって来る"6メガ・7メガ論争"

その後、八木さんと高柳さんが対決しなければならい場面がやってきた。日本でもテレビ放送が開始されようとしていた1952年(昭和27年)のことだった。日本のテレビ放送標準方式を決める上で周波数を6メガヘルツにするか、7メガヘルツにするかといった“6メガ・7メガ論争”が起きた。郵政省・電波監理委員会は、アメリカが先行採用している6メガヘルツ案を主張した。一方、高柳さん達はNHK、EIAJの関係者間で合意した7メガヘルツ案を主張した。結局、6メガ派が押し切る形で、走査線525本のアメリカ方式が採用となり、今日に至っている。 1953年(昭和28年)2月にNHKがテレビ本放送開始し、同年8月には日本テレビ(初の民放)放送も開始、テレビ大国への道を歩み始めることとなる。

日本の代表的な輸出商品となったカラーテレビ

6メガヘルツでのカラー放送は、きれいな映像を受信するために様々な技術開発が要求される結果となった。しかし、皮肉にもこれが逆に日本のカラーテレビ技術を発展させる上で大きな原動力となったのだ。輝度信号とカラー信号を6メガヘルツという狭い周波数帯に乗せて送り、受像機で両信号を分離しノイズや濁りの無いカラー画像を再生するための技術の開発が必要となり、受像機の改良が進んでいった。その結果、優秀な日本のテレビが海外で高い評価を受け、日本の代表的な輸出商品となって行った。

業界の発展に尽くした数々の表彰を受けてた高柳さん

また、高柳さんは1技術者というだけでなく、我が国のエレクトロニクス業界の発展や、企業の経営者としても大きな功績を残している。「テレビジョン同好会」(現日本テレビジョン学会)を創設、会長として活躍したほか、日本電子機械工業会(EIAJ)テレビジョン技術委員長としても我が国のテレビの発展に貢献している。さらに経営者としては、日本ビクターの代表取締役副社長として同社の発展に貢献している。これらの功績に対して、1981年(昭和56年)に文化勲章受章、 1989年(平成元年)には勲一等瑞宝賞を受章したほか、数々の表彰を受けている。1990年(平成2年)7月23日、死去、享年91歳の長寿を全うしたのだった。

数々の表彰を受けた高柳さん


『参考文献』 日本ビクターHP「テレビの父」高柳健次郎の足跡、アイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、Web:浜松偉人伝