テレビの発明、実用化に2人の日本人科学者が大きな役割を果たす

日本人のテレビ好きぶりは“一億白痴化”と揶揄されたほどだが、そのテレビの発明、実用化に2人の日本人科学者が大きな役割を果たしていたことは一般の人たちにはあまり知られていない。技術に詳しい人ならば、テレビを発明したのは“テレビの父”とも呼ばれている高柳健次郎博士であり、テレビアンテナを発明したのは八木秀次博士で一般に八木アンテナと呼ばれるものであることは、良く知られている。

ただし、八木アンテナに関しては、共同開発者である宇田新太郎博士の名も加え、最近では八木・宇田アンテナという名称が使われるようになってきている。高柳健次郎博士、八木秀次博士に関する記述は数多くあり、またこの連載やアイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)などでも紹介されているが、テレビの発展に果した2人の役割があまりにも大きいので、その功績をもう少し詳しく紹介しておきたい。

アンテナの基本原理を発見した八木さん

高柳健次郎博士、八木秀次博士ともほぼ同世代の生まれといえる。八木秀次博士は、1886年(明治19年)1月28日、大阪府に生まれている。また、高柳健次郎博士は、1899年(明治32年)1月20日、静岡県浜松市に生まれている。そこで1周りほど誕生が早い八木秀次博士に敬意をはらいまず取り上げてみたい。八木秀次博士は、1909年に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、1913年に欧米に留学後、1919年に東北帝国大学工学部教授となり工学博士の学位を取得している。

この頃から電波の受信用アンテナの研究を始め、アンテナの基本原理を発見している。当時八木研究室にいたのが講師だった宇田新太郎さんで、八木さんは宇田さんに実用化のための研究をさせ、1928年に八木・宇田の連名で論文を発表している。しかし、特許が八木の単独名で国内外に出願されたため、外国の人たちがYagi antennaと呼んだことから一般に八木アンテナと呼ばれるようになった。

八木秀次さん

皮肉にも日本軍が八木アンテナの存在を知ったのは敵の捕虜から

しかし、八木アンテナは発表当時、日本の国内ではほとんど注目されなかった。むしろ欧米の学会や軍部が八木アンテナに注目したのだった。それは、当時、各国がレーダーの開発に力を入れており高性能なアンテナを必要としていた。そこで八木アンテナの性能が注目されたのである。第2次世界大戦において日本軍はレーダーの開発に遅れを取ったため苦戦することになるが、日本軍は八木アンテナの存在を知らなかった。

皮肉にも日本軍が八木アンテナの存在を知ったのはイギリスが植民地としていたシンガポールを陥落させた1942年で、見たこともないアンテナがあり、焼却炉に残っていたレーダーの技術資料らしいノートを押収した。そのノートは日本国内に送られ、兵器本部で調べられた。しかし、文中に出てくる「Yagi」の意味がわからない。どうやらアンテナの種類らしいが専門家でも知っている者がいない。ノートの製作者は捕虜としてシンガポールの収容所にいた。尋問すると、書いた本人は驚き「本当にYagiを知らないのか。Yagiは日本人であり、アンテナの発明者ではないか」とあきれたという。

八木・宇田アンテナ(テレビ用)

急遽八木アンテナを使ったレーダー開発に着手するも時すでに遅し

これに驚愕した日本軍部は、ことの重大さに気づき急遽、八木アンテナを使ったレーダーの開発に着手する。しかし時すでに遅く完成したのは昭和20年になってからで、戦争には何の役にも立たたず敗戦を迎えた。むろん開発者である八木さんは、軍部に出向き情報機器の重要さやアンテナのことについて進言している。だが、当時の軍部は情報機器の重要性をさほど認識していなかったようで、皮肉にも敵国からYagi antennaの存在を教えられる結果となってしまった。

日本軍の敗戦は「物量の差」であり、アメリカとの国力差が原因と分析されるが、たしかに第一の理由はそこにあるのは間違いない。しかし、情報の重要性において認識の差も大きかったといえる。「夜間、敵の飛行機や軍艦を見つけるのに夜暗くても良く目の見える兵に双眼鏡を持たせ見張らせ、ビタミンAの豊富な人参をたくさん食べさせる」といった具合。

また暗号解読にも遅れをとり、逆に暗号を解読されミッドウェイ海戦に敗れたり、山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機を待ち伏せされ撃墜されてしまったりしている。技術や情報を軽視したことが敗戦につながり、多くの尊い人命を失うことになった。しかし、高い授業料ではあったが戦後、平和国家となった日本は技術立国として発展していくことになった。そして技術立国への源流となった一つが八木・宇田アンテナである。

戦後GHQから公職追放者指定を受けた八木さん

八木さんは、1942年に東京工業大学学長に就任し、1944年には内閣技術院総裁に就任している。さらに、1946年には大阪帝国大学総長に就任したがGHQの公職追放者指定を受けて辞職せざるを得なくなり辞職し、日本アマチュア無線連盟会長に就任したのだった。そして八木さんたちは日本のアマチュア無線再会に向けて努力していくことになる。八木さんが戦後GHQから公職追放者指定を受けることになってしまったのは、やはり八木アンテナの発明者であることや、内閣技術院総裁に就任していたことが理由だろう。

GHQは、兵器となるような技術開発を禁止しており、航空機の開発などを禁止していた。レーダーのアンテナともなる八木アンテナの発明者の八木さんが公職につきさらに研究することを阻止したいと考えたとしても不思議でない。また、内閣技術院はソニーの創業者である技術者の井深大さんと、海軍技術将校で後に井深さんと2人3脚でソニーを世界的な大企業に育て上げた盛田昭夫さんが出会った場所であることも何かの縁だろう。

八木さんの功績に対して文化勲章、勲一等旭日大授賞が贈られる

内閣技術院総裁時代の八木さんは、熱線誘導兵器の研究に携わっていたが、「技術者として人命を損なわずにすむ熱線誘導兵器を開発する責任があり、その完成が遅れ特攻がなされているのは慙愧に耐えない」と議会で答弁し、人命を軽視した精神論や特攻隊賛美のなかで技術者としてのそれに反対する勇気ある意見を述べている。そして、戦後の1952年にテレビや無線のアンテナメーカーである八木アンテナ株式会社が設立された。

日立製作所、日本軽金属が出資し、八木さんも10%の株主となり、八木さんが社長に就任した。蛇足ではあるが、八木・宇田アンテナとは、テレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線などに利用されるアンテナで、前方に導波器を並べ、その次に輻射器があり、一番後に反射器という構造になっているものでテレビアンテナとして屋根に上がっているのがよく見られる。このアンテナは指向性が強く、受信する方向を選べるのが特長で微弱な電波でもキャッチすることが出来る。これがレーダーに適しているため使用された所以でもある。

国は八木さんの功績に対して1956年に文化勲章、1976年には勲一等旭日大授章を贈っている。歯に衣を着せることのない八木さんは、文化勲章が決まった時「かつては教職不適格者として追放しておきながら、今度は勲章をくれるという。国家とは不思議なことをするものだ」と批判したという。また、八木さんは、1953年(昭和30年)には参議院議員選挙に全国区で立候補し当選、また、1955年(昭和32年)には武蔵工業大学の学長を務めるなど、やはり単なる技術開発者ではなかった。なお、1976年(昭和51年)1月19日に永眠された。81歳だった。


『参考文献』 アイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、WEB「奇人発見伝」、WEB[Weblio]