幸運にも戦後のテレビ放送の研究再開は思いがけなく早かった

戦前にはテレビ放送の公開実験を行い、テレビ放送実用化の一歩手前までいった日本だが、太平洋戦争勃発により研究は中断されてしまった。そして敗戦の結果、占領軍であるGHQによって電波行政は管理されることとなった。また、戦争中は多くの技術者が海軍などで研究していたが、GHQは電波関連の公共での研究を一切禁止するとともに、軍の仕事をしていた者の公共事業への就職を禁止してしまった。なお、戦後GHQからアマチュア無線再開の許可を得るまでのハム達の戦いぶりを、この連載第1回「アマチュア無線再開での奮闘」や、アイコム(株)でアマチュア無線の歴史を調べている吉田正昭氏の週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」で紹介しているが、それは非常に困難な道だった。しかし、幸運にもテレビ放送の研究再開は思いがけなく早かったのである。

占領政策にラジオ放送やテレビ放送を利用したGHQ

戦後、高柳さんは海軍で一緒に研究していた青年技術者達とNHKに戻ってテレビ放送の研究を再開しようとしていたが、GHQの公共事業への就職禁止により、それができないことになってしまった。そこで昭和21年7月、技術者20数名とともに日本ビクターに入社、同社にいた技術者10名ほどと合流。テレビジョン研究部長としてテレビの研究を再開する。しかし、予想外に早く同年夏にテレビの研究禁止が解除されたのは日本のエレクトロニクス技術にとっては幸運だった。GHQは、ラジオ放送やテレビ放送を使って占領政策を国民に徹底することを考えていた。日本に民主主義を根付かせるためには新聞や放送などのメディアを有効に活用し、言論の自由など民主主義の基本的な考え方を徹底する必要があった。また、戦争によって荒廃した国土の復興と、壊滅した経済を立て直すためには国民の士気高揚が不可欠であり、ラジオ放送やテレビ放送による娯楽の提供が必要と考えたのかもしれない。これがアマチュア無線再開との大きな差を生んだようだ。また、戦後はしだいにソ連など共産圏と対立するようになり、スパイ合戦がつづいていたため無線がスパイ活動に利用される可能性があったことも影響している。戦後、アマチュア無線が再開されたのは昭和27年3月であり、実に再開運動をスタートしてから7年間の長い年月を要したのだった。

高柳さんがGHQとテレビ放送の試験電波の枠をもらうために交渉

GHQのテレビ研究禁止解除を受けて、NHK技研では昭和21年から撮像管や受像機の研究を再開した。そして昭和24年、日本電子機械工業会(EIAJ)のレテビジョン技術委員長だった高柳さんは、GHQに対してテレビ放送の試験電波の枠をもらうための交渉を繰り返し行いNHKとメーカーが共同で使用する1チャンネル分の使用許可を得ることに成功する。この電波を使ってNHKではテレビ放送の実験を東京など各地で公開した。東京では日本橋三越で実験が行なわれている。

NHKが昭和25年11月から定期的なテレビ実験放送を開始

戦後の新しい電波行政がスタートしたのは昭和25年4月に施行された電波三法からである。放送法の制定にともないNHKも新しい組織となり民間放送も可能となった。これを受けてラジオ放送局の開設申請が行なわれるようになり、昭和26年9月に中部日本放送が開局し、昭和27年末までには18社の民放局が誕生している。テレビ放送に関しては、NHKが昭和25年11月から週2回、1回3時間の定期的なテレビ実験放送を開始した。映像周波数103.25MHz、音声周波数107.75 MHz、出力500W、走査線525本、毎秒25枚の暫定方式だった。また、NHKは地方都市においては列車やテレビカーなどで巡回し、公開実験や展示を行いテレビの啓蒙を図っている。

大論争となった周波数帯6MHz・7MHz論争

そして、いよいよテレビ放送の本放送をスタートする時期が近づいた。そのためには日本のテレビジョン標準方式を決めなければならない。テレビジョン放送方式には、アメリカで開発されたNTSC(national television system committee)方式をはじめ、ドイツで開発されたPAL(Phase Alternating Line)方式、フランスで開発されたSECAM(Sequentiel couleur a memoire)方式などがあるが、白熱した論争の結果、アメリカのNTSC方式、周波数帯域6MHzが採用されることになった。この時、7MHz案を主張したのがNHKやEIAJサイドの技術者だった。もちろん高柳さんも7MHz案を主張した。この6MHz・7MHz論争は、今でも語り継がれるほどの大論争になったのであるが、一旦、決定してしまうと後戻りできない問題だけに当然といえば当然の事といえる。

世界のテレビ放送方式

放送方式 走査線数 フレーム数 主な地域
NTSC方式 525本 毎秒30枚 アメリカ、日本、ブラジル、韓国など
PAL方式 625本 毎秒25枚 イギリス、ドイツ、西欧諸国、東南アジア諸国など
SECAM方式 625本 毎秒25枚 フランス、ロシア、東欧、アフリカ諸国など

6MHz派が押し切る形で6MHz案を採用に決定

7MHz案推進派は、「将来のカラー放送化を視野に入れ周波数帯域幅を広く取っておくべきで、7MHzの内、映像周波数に5MHzをとっておきカラー化に対応する必要がある」という主張である。一方の6MHz案推進派である郵政省・電波監理委員会は、「帯域幅がただちに画質に反映するものでなく、受信電波の良否に左右される。多くのチャンネル数を確保するために6MHzで行くべき」という主張である。結局、この論争は6MHz派が押し切る形でアメリカと同じ方式の6MHz案採用が決まってしまった。このあたりに敗戦国日本の「アメリカとの科学技術力差で戦争に敗れた」というコンプレックスがみてとれる。

画質や技術よりも政治的事情に左右されたテレビ放送方式採用

7MHz案推進派だった高柳さんは、後に「ひどくなまったNTSC方式のテレビ画面を見るたびに、もしあの時に7MHzを採用していれば・・・」と残念がったという。また、PAL方式やSECAM方式について検討されたという記録は見られない。これも始めからアメリカありきのためなのだろうか。PAL方式やSECAM方式は走査線数625本、毎秒25枚で走査線数が多い分解像度優れるが、毎秒の画の枚数が少ない分フリッカーが目立つ。しかし、世界各国がどのテレビ放送方式を採用したかは、画質や技術うんぬんよりも、政治的なお国の事情によるところが大きい。特に、国境を接する国々や政治体制の異なる国々では、お互い情報が漏れないように別々の方式を採用しているし、植民地だった国では宗主国だった国が採用した方式を使っている。放送を有力なプロパガンダの手段と考えていたからである。

日本のエレクトロニクス発展に結果的にはプラスだったNTSC方式採用

ところが日本が採用したNTSC方式は、アメリカを中心に台湾や、フィリピン、ブラジルなど採用しているが、PAL方式やSECAM方式を採用している国と比べ意外と少ない。しかし、少数派であるNTSC方式の採用は、早くから経済大国だったアメリカという大市場へ、テレビ輸出をやりやすくするという大きなメリットをもたらした。そしてこのテレビ受像機の輸出が日本のエレクトロニクス発展のための資金、技術両面で貢献してゆく。

昭和28年2月、NHKがテレビ本放送わ開始「電化元年」を迎える

6MHz・7MHz大論争の末、NTSC方式6MHzで決まったテレビ放送が開始されたのは昭和28年2月で、NHKがテレビの本放送を開始したのである。走査線525本、毎秒30枚の白黒テレビ放送だった。1日4時間の放送で、受信料は月額200円、契約件数はわずか866件だった。NHKに遅れること6カ月、同年8月には民放テレビ局日本テレビ(NTV)が放送を開始している。我が国初の民放局の誕生である。テレビ受像機の量産もNHK、NTVのテレビ放送開始とともに本格化した。同年にシャープが我が国初のテレビ受像機の量産を開始している。量産第1号機(TV-14T)は14インチで価格は175,000円だった。このテレビ放送開始とテレビ受像機量産の昭和28年が我が国における家電普及が始まりであることから、この年を「電化元年」と称するようになった。

シャープの我が国初の量産第1号機「TV-14T」(シャープホームページより)


『参考文献』 テレビジョン技術史(テレビジョン学会)、テレビの父・高柳健次郎(日本ビクターHP)、シャープホームページ、日本放送技術発展小史(NHK技研)、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』