"エレクトロニクス立国日本"の立役者テレビ

“エレクトロニクス立国日本”をもたらした立役者と言えばやはりテレビだろう。ブラウン管テレビ時代から液晶テレビ、プラズマテレビへと時代はフラット・大画面テレビへと進化しても、やはり日本は「テレビ大国」であることに変わりはない。世界的にテレビ放送もアナログ放送からデジタル放送へと移行しつつあるが、HDテレビ技術においても日本のエレクトロニクス技術は大きな役割を果たしてきた。

テレビ技術の発明・発展においては初期の段階から日本人が大きな役割を果たしている。まずテレビの発明の歴史について振り返ってみたい。テレビの発明は、ただ1人の天才科学者によって行なわれたというものではない。テレビの概念を統一するもの難しく、それによって誰がテレビを発明したかで違いが出てくる。つまり今日のテレビのように、「テレビカメラがあって、撮影した映像を電気信号に変換し、テレビ受像機で再現する」ということになると、日本人を含む複数の世界の技術者の発明が必要となる。

走査線という概念が映像を遠くへ送ることに結び付く

「遠く離れた場所にあるものを見てみたい」、また「映像を遠く離れた所に送りたい」という夢は人類が長年持っていた夢であり、「鳥のように空を飛んでみたい」という夢と同じく早くから研究されてきたのだろう。しかし、映像をどうやって送るのかという具体的な方法となると雲をつかむような話で、答えはなかなか出てこなかった。しかし、静止画ではあるが画像を分割・走査して走査線という形で送り、受け取る方ではまたそれを組み合わせるという考え方が1843年にイギリスのペインによって考案された。

静止画ではあるが走査線という概念を取り入れた功績は大きい。静止画であっても、時間を置いて何枚も送ることができれば動画となるわけで、映像を遠くへ送るという原理的なものは目鼻がついたといえる。ただ、原理が分かったというだけで、それを実現するためには様々な技術開発を待たねばならなかった。

ブラウン管に「イ」の文字を映し出すことに成功した高柳健次郎氏

テレビの映像を映し出すための「ブラウン管」は、その名にある通り、ドイツの科学者K.F.ブラウン氏が1897年に発明している。しかし、この「ブラウン管」はテレビの映像を映し出すためのものではなく、電気の実験に使う波形観測用で、まだテレビという概念はなかった時代である。もちろん撮影用のテレビカメラなどあるはずもない。この「ブラウン管」に「イ」の文字を映し出し、「テレビの父」といわれているのが高柳健次郎氏(1899年-1990年)である。

昭和8年、テレビ実験用送信機=左が高柳氏(静岡大学テレビジョン技術史)

1926年に機械式撮影と電子式受像の組み合わせでテレビ実験

テレビカメラのない時代にいったいどうやって高柳健次郎氏は、「ブラウン管」に「イ」の文字を映し出したのか。当時、ニポー円盤と呼ばれる穴の開いた円盤による機械式の撮影が考えられていた。このニポー円盤と呼ばれる穴の開いた円盤をモーターで回転させ、光源を「イ」の文字を書いた雲母板の後ろに置き、ニポー円盤の穴から出てきた光を光電管で捉え、増幅した電気信号を「ブラウン管」に映し出す。その際に、同期させるための信号を発生させ「ブラウン管」の上にラスターを描かせ、電子的に「イ」の文字を映し出すことに成功したのは、大正15年(1926年)12月のことだった。

その時の装置の走査線は40本だった。しかし、ニポー円盤では走査線の数に限界があり、テレビの実用化に必要な数100本の走査線にするのは無理だった。この実験はニポー円盤による機械式撮影と、「ブラウン管」による電子式受像という組み合わせであったが、この電子式受像が今日のテレビの原型となっているので「テレビの父」と呼ばれる所以である。

1925年にイギリスのJ.L.Baird氏が機械式撮影、機械式受像で実験

このニポー円盤を発明したのはドイツのP.G.Nipkow氏で、1884年に考案している。ニポー円盤には渦巻状に穴が開いており、この穴を通して被写体を走査していくもので、その後の電子式撮像管に至る道を開いたといえる。高柳健次郎氏が1926年に電子的に「イ」の文字を映し出すことに成功する前年の1925年には、イギリスのJ.L.Baird氏がニポー円盤による機械式撮影をした映像を、やはりニポー円盤とネオン管・光電管を組み合わせた機械式受像により再現することに成功しており、これをテレビの発明と言えなくもないが、撮影と受像の2つのニポー円盤の回転を同期しなければならず“離れた”という“テレ”という言葉を当てはめるには、やや苦しいところがある。

1930年に高柳健次郎氏らの浜松高等工業式テレビと早稲田大学式テレビが、ラジオ放送5周年記念展覧会で公開実験されている。早稲田大学の山本忠興教授と河原田政太郎教授は、5尺四方の大画面に走査線数60本、毎秒12.5枚の映像を映し出し好評を博した。この頃になるとNHKでも本格的にテレビの研究を開始している。また高柳健次郎氏は1930年12月に撮像管を使ったテレビカメラを開発し、走査線100本、毎秒20枚の画像による実験に着手、1932年には静岡県浜松市での実験放送を行い、送受信に成功している。全電子式テレビの誕生である。

昭和12年、実用化を目指して作られたテレビ受像機(静岡大学テレビジョン技術史)

1933年に電子式撮影管「アイコノスコープ」が発明される

テレビ放送の実用化にはどうしても撮影するためのテレビカメラを開発しなければならない。ある程度の画質を確保するためには、数100本の走査線が必要で、ニポー円盤ではとても実用化レベルは難しい。こうした理由から、高性能な電子式の撮像管の開発競争が行なわれていたが、なかなか進展していなかった。そうした中で、最初に実用に近づいた撮像管を発明したのは、ロシア生まれでアメリカに亡命し、RCA社に入社しテレビの研究を行なっていたV.K.Zworykin氏で、1933年に「アイコノスコープ」と呼ばれる電子式の撮像管を発明した。

「アイコノスコープ」の発明は、他の研究者にも大きな衝撃を与えた。高柳健次郎氏もこの情報を聞き、すぐに開発チームを組み「アイコノスコープ」の研究を開始した。そして独自で走査線220本、毎秒20枚のテレビカメラを作成した。さらに、1936年には走査線245本、飛び越し走査、毎秒30枚のテレビを完成している。その後も高画質化の研究が進められ、1937年には走査線441本、毎秒30枚という当時としては世界最高水準を行く現在のテレビに匹敵する受像機を完成させている。

国威発揚を狙って日欧米各国がテレビ放送実用化競争に拍車

このように1930年代に入ると、テレビカメラや受像機の技術レベルはかなり向上している。しかし、テレビ放送の実用化となるとまだまだ解決すべき課題も多かった。欧米各国や日本では、国威を示す上でもテレビ放送の実用化をどこよりも早く実現させたいという強い願望があった。中でもドイツは、1936年のベルリンオリンピックに向けてテレビ中継を計画、国威発揚を狙ってテレビ放送の実用化には力を入れていた。

ドイツは、1935年3月にニポー円盤使用の機械式カメラによる世界初の試験放送を開始。そしてベルリンオリンピックでは世界初のテレビ中継が行なわれた。試験放送は機械式カメラだったが、本放送ではテレビカメラは「アイコノスコープ」が使われた。しかし、走査線数は180本でニポー円盤使用の機械式と同じだった。走査線を441本にアップしたのは翌年であった。

「アイコノスコープ」採用で、走査線441本と現在のテレビに近づく

フランスもドイツに負けてなるかと同年4月から試験放送を行なっている。イギリスではBBCが1936年にニポー円盤による機械式と「アイコノスコープ」を使った電子式を併用したテレビ放送を開始している。また、アメリカでは1936年にニューヨークで「アイコノスコープ」を使った電子式で実験放送を開始している。走査線343本、毎秒30枚、飛び越し走査方式だったが、翌年には走査線441本にアップして試験放送を行なっている。このころには走査線441本で各国が足並みをそろえた形になっており、画質もかなり現在のテレビに近づいてきている。

戦争勃発で幻となった東京オリンピックテレビ中継

一方、日本では、1940年に開催予定となっていた東京オリンピックのテレビ中継を目指していた。そのために、1938年に走査線441本、毎秒25枚、跳び越し走査の暫定規格を決め、1939年5月にNHKが東京で日本初のテレビ放送公開実験行なっている。だが、日中戦争勃発や第2次世界大戦勃発など国際情勢が悪化してきたことなどから政府はオリンピック開催地を返上したため計画は中止され、幻のオリンピック中継となった。

1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発によりテレビの研究は禁止され、軍のレーダーや電波兵器開発に技術者は駆り出されることになる。しかし、こうした戦前のテレビ実用化へ向けた技術開発が、戦後のエレクトロニクス技術発展の布石となったのであり、「エレクトロニクス立国日本」の源流がそこにある。


『参考文献』 テレビジョン技術史(テレビジョン学会)、テレビの歴史年表(Web)、テレビの父・高柳健次郎(日本ビクター)、日本放送技術発展小史(NHK技研)