地方にも多くのアンカバー達がいた

アマチュア無線の免許制度が始まる以前の大正末からアンカバー(不法)で電波を出すケースが増加していたことは前回紹介した。そして、この時代のアンカバー達の中に戦後のエレクトロニクス発展に大きな役割を果たした人達がおり、関東、関西におけるハム達の活躍ぶりも紹介した。では、それ以外の地域ではどうだったのだろうか。これもJARLの現会長である原昌三(JA1AN)さんが言うところのアマチュア無線の「神代の時代」のことでであり、地方となると、さらに当時の状況を記述した資料は少ない。

しかし、当然、地方にも大勢のアンカバー達がいたはずである。事実、昭和7年6月20日付けの東京都新聞では、当時のアマチュア無線局数を346局と報じているが、これ以外にも「アンカバーが全国で5000人以上いるのが問題だ」と報じている。そして、地方のアンカバー達の中にも戦後のエレクトロニクス発展に大きな役割を果たした人達がいたのも事実である。

そこで、アマチュア無線のあゆみ(JARL編)、日本アマチュア無線史(元朝日新聞社記者・小林幸雄著)、日本アマチュア無線史(電波実験社・岡本次雄、木賀忠雄著)や、週刊BEACON(アイコムホームページ)など数少ない貴重な資料の中から、地方のアンカバー達の活動状況を探ってみた。アイコム(株)でアマチュア無線の歴史を調べている吉田正昭氏は、地方のハム達の活動の歴史を実際に現地に出向いて調査し、アイコムのホームページ「週刊BEACON」で紹介しているが、ここでは戦前のアンカバーの動きにしぼって紹介する。さらに、詳しく知りたい方は「週刊BEACON」を御覧いただきたい。

北海道では田母上さんが活躍した

北から順に追ってみる。北海道ではどうだったのだろうか。北海道では田母上さんの活躍が目立つ。田母上さんと友人の直井さんは、田母上さんのお兄さんの揃えてくれた参考書で無線工学の勉強をするとともに、毎日「新聞電報」を聞いてモールスの訓練を始めた。「新聞電報」とは、新聞社が毎日のニュースをCW(電信)で有料送信するもので、船舶や海外在住の日本人がおもな対象であったが、最近ではFAXなどによる伝送に移行している。2人ともUX112Aのプッシュプル送信機を作り、それぞれの庭にツェッペリン空中線を張り、受信を楽しんだ。モールス信号は3カ月程度で自信がもてるようになったこともあり、アンカバーでの送信をやることになり、直井さんがJ7CF、田母上さんがJ7CGのコールサインで毎日のように送信していた。

平成初期のころの田母上さん

翌年の3月、直井さんがアルゼンチンの局と交信後、QSLカード欲しさについに住所・氏名を打ってしまい、仙台通信局の監視員にそれを記録され、2人とも札幌通信局に呼び出された。係長の藤縣さんは、未成年の2人には始末書だけで処理し、すぐ出願するよう命じた。2週間後に願書を持っていくと、すぐに別室で試験を受けることになった。合格した2人に、藤縣さんはアンカバーの時に使っていたコールサインを割り当てるなど、粋なはからいをしてくれた。

函館中学5年生だった3人がアンカバーを始める

また、昭和11年、旧制「函館中学」5年生だった藤山四郎さん、渋谷兵衛さん、上野正雄さんの3人は「理化研究会」を作り活動していたが、全員が合調語のモールス符号を3週間程度でマスターし、アンカバーを始めた。ほどなくして札幌通信局監視部に傍受され、藤山さん、渋谷さんの2人が捕まる。

3人は監視員の畑山乙樹さんに諭されて実験局の免許を申請し試験を受けて合格。藤山さんは卒業後東京の日大に進学し開局を断念。上野さんは同じく東京の無線電信講習所に入りJ7MDとなる。一方、北大に進んだ渋谷さんは昭和12年(1937年)6月にJ7CTを開局。これが北海道での戦前最後のアマチュア局となった。

戦前、運用中の渋谷さん

アンカバーで交信した記録のない東北地区

次に、東北地区におけるアンカバーはどうだったのだろうか。残念ながら、昭和4年(1929年)、島貫さんが免許を取得する以前の東北の無線業界のことは分からない。アンカバーで交信した記録もなければ、他の地域で正式にハムとなった方が、東北と交信したとの記録もないのである。しかし、東北といえば東北帝大で大正15年(1926年)に八木秀次教授、宇田新太郎助教授らが世界的な評価を受けた「八木・宇田アンテナ」を開発するなど、国内でも電波通信技術レベルが高かった地域である。「八木・宇田アンテナ」開発のためには当然電波受信が必要であり、電波の発信は早かったはずだが、外部との交信を匂わすような資料は見つかっていない。

八木・宇田アンテナを開発した八木秀次博士

浜松でアンカバーの可能性

東海地区においても、アンカバーの活動や、最初の電波を誰が出したのかは、はっきりとした資料は無い。戦前、電波行政の上では静岡県は関東圏に組み込まれていた。その静岡では浜松地区が無線活動の活発な地区であった。理由は2つある。大正13年から昭和12年まで浜松高等工業に勤務し、世界最先端のテレビジョン技術の開発を行った高柳健次郎教授の存在である。もう一つは当時、浜松市の北部の三方ケ原台地に陸軍の通信隊があったことであった。高柳さんの影響を受けてその後ハムになった若者は多い。

高柳さんらは盛んにテレビ電波を飛ばす実験を行ったが、その時に「アマチュア無線の妨害を受けることが少なからずあった」と記している。すでにアマチュア無線の免許が与えられていた時期であったが、無免許の電波があった可能性もある。一方、陸軍通信隊では前回に触れた佐藤謙次(健児)さんがいた。軍人のため”2文字”コールの戦前に”3文字”コールをもっていた。浜松の下宿に大出力の設備をもちやはり地元の若者に大きな影響を与えていた。

テレビジョンの開発で知られた高柳健次郎博士

関西のハム達の交信を受信、またはアンカバー交信の可能性も

「JARL NEWS」への報告時にはJ2CBのコールサインが明示されており、この時には電信免許をもっていたことになる。いずれにしても、山口さんはアンカバー時代と同じコールサインをもらっている。山口さんは関西のハム達の交信を受信し、あるいは一緒になってアンカバー交信をし、JARLの発足を知った可能性がある。JARL結成は、関東、関西の数名のハムが東京で会合をもち決定し、他のメンバーには無線で連絡していたからだ。このあたりは推測の域を出ない。

九州地区では堀口文雄さんが活躍

中国・四国地区におけるアンカバー達の動向については、残念ながら全く記録らしいものが無く、実態は分からない。しかし、記録が無いというだけで、他の地区に比べてアマチュア無線の活動が遅れていたというわけではなく、当然アンカバー達はいたはずである。また、九州地区においてもアンカバー関連の記録は無いが、堀口文雄(J5CC)さんが昭和6年春に開局したことがはっきりしており、中学4年で短波受信機を作り、受信に熱中したのが昭和3年で、その後、送信機を作り交信を始めたと思われる。昭和5年の免許取得、6年の開局まではアンカバーだったかもしれないが、これも推測の域を出ない。

堀口さんのアンカバー局J2WVが九州で最初の電波か

大正15年の頃、近畿では笠原さん、谷川さんが3AA、3WWを、東京では仙波さんが1TSを名乗っていた。いずれもアンカバーのコールサインであった。これもアイコムの吉田正昭氏の推測であるが、堀口さんがそれを受信し、J2WVを名乗ったことが考えられるとしている。九州に堀口さんより早く電波を出した人がいる可能性もあるが、記録としてはっきりしているのは堀口さんのアンカバー局J2WVが九州で最初ということになると言うのだ。早ければ昭和3年、遅くとも昭和5年までには九州で初の短波が空を飛んだと推測している。いずれにしても戦前の九州のハムは、J5CBの関伊吉さん以下、J5DIの桑原久善さんまでの26名おり、他の地区に比べて遅れていたわけではないようである。


『参考文献』 週刊BEACON(アイコムホームページ)、アマチュア無線のあゆみ(JARL編)、日本アマチュア無線史(元朝日新聞社記者・小林幸雄著)、日本アマチュア無線史(電波実験社・岡本次雄、木賀忠雄著)