大正末から増加したアンカバー

大正末から若者を中心にアンカバー(不法)で電波を出すケースは増加していた。しかし、我が国にまだアマチュア無線の免許制度が無かった時代だけに正式にアンカバーと言えるかどうかは判断の分かれるところだ。戦前は「アマチュア無線」との名称はなく「私設無線電信無線電話実験局」と呼ばれていたが、わずらわしいため、以下「アマチュア無線」と呼ぶ。

2つの説があるアマチュア無線の始まり

わが国のアマチュア無線の歴史は、大正11年に個人の私設実験局として東京にあった「発明研究所」の浜地常康さんが免許を受けたのが最初という見方がある。一方、有坂磐雄(JLYB)さん、楠本哲秀(JLZB)さんの2人に初めて短波実験局の免許(アマチュア無線免許)が下りた昭和2年3月が最初の説もある。さらに、この2人も職業としての免許であり、アマチュアではないとの意見もあり、今日では定かではない。

アマチュア無線「神代の時代」

次いで、その年の10月には草間貫吉さん(JXAX)らに免許が下りている。このように大正11年をアマチュア無線の始まりとするのか、昭和2年とするのか見方が分かれている。JARLの現会長である原昌三(JA1AN)さんは、免許制度のなかったこの時代をアマチュア無線の「神代の時代」と名付けている。この言葉は、歴史的なしっかりとした記録のないことを意味してもいる。

戦後、技術発展に貢献したアンカバー達

実は、この時代のアンカバー達の中に戦後のエレクトロニクス発展に大きな役割を果たした人達がいる。ソニーの創業者である井深大さん、同じくソニーの役員を務めた笠原功一さんをはじめ、東芝に勤務した矢木太郎さんなど電機メーカー、電力会社、放送局に勤務したエンジニアが数え切れないほどいる。アンカバーが最初に行われたのは関東か関西かは、資料の無い「神代の時代」のことだけにはっきりしない。

笠原功一さん自作の送信機 わが国のアマチュア無線の歴史上貴重なものである(JARL発行-アマチュア無線のあゆみ)

アンカバー摘発の第1号は関東の3人

しかし、記録に残るアンカバー摘発の第1号ははっきりしている。佐藤昭挙さん、中川国之助さん、斎藤兼蔵さんらの関東の3人は大正13年ころからお互いに交信していたともいわれており、大正14年末に東京逓信局に不法電波として告発されている。取り締まる法律は、大正4年に施行された無線電信法であった。

短波への移行が早かった関西

これに対して、アンカバー通信をした記録がはっきりしているのが。大阪の梶井謙一さんと西宮の笠原功一さんの2人の交信であり、これをアマチュア無線交信の最初とする説が有力となっている。もっとも、このころの記録はあいまいであり、関東、関西ではいくつかのグループが大正12、3年ころには活発に電波を出していてらしい。当初、関東、関西もラジオ放送の行われていた中波帯での交信であった。

大正15年春頃に関東と関西の交信始まる

もちろん、日本でのラジオ放送は始まっていなかったが、中国・上海からの放送は大正12年には行われていた。ただし、中波から短波に移行したのは関西が早く、井深大さん、草間貫吉さん、谷川譲さんなどがお互いにコールサインをそれぞれ勝手に決めて交信を行なっていた。これに対して、関東では中波帯での交信時期が長く、矢木太郎さんらのグループも、また、摘発された佐藤さんら3人もそうであった。関東が短波に移行して関西との交信が成立したのが大正15年春頃と言われている。

晩年の矢木さん 戦後もアマチュア無線再開に尽力された

それ以前のアンカバーの可能性

現存の資料ではわが国のアンカバーの歴史はそれ以前には遡れない。しかし、アイコム(株)でアマチュア無線の歴史を調べている吉田正昭氏は、大正12年以前にアンカバー通信があった可能性を推測している。「明治中期以降、日本人は欧米から文化、科学思想とともにさまざまな工作物を持ち込んだ。アマチュア無線先進国の米国から無線機を持ち帰った誰かがいたはず」との推測である。

無線機を日本に持ち込んだ可能性も

米国では大正3年ARRL(米国アマチュア無線連盟)が生まれ、大正6年には会員数は4000名にもなった。第1次世界大戦が終了しほどなくすると大量の真空管などの電子部品が放出され、アマチュア無線機の性能は飛躍的に高まる。大正11年には何人かのハムが3MHz付近の周波数で米欧間の交信に成功している。この時代、滞米していた日本人は無線技術を習得しないまでも、無線機そのものをもって帰り、国内で電波を出したのではないか、というのが吉田氏の説である。

梶井/笠原さんの奮闘

初のアマチュア短波無線交信といわれている梶井さんと笠原さんの物語をしばらく続けたい。2人は大阪朝日新聞社の中波試験電波を自作の受信機で聞いていたが、笠原さんが「聞いているばかりではつまりません。電波を出して見ようと思うのですが」と言い出したのだった。当時中学生だった笠原功一さんは自分で送信機を作った。部品らしい部品の無い時代であり、1本6円と当時としては超高価な真空管を大枚はたいて手に入れ、苦労をしながら送信機を完成させた。そして2人は自分の趣味に合わせてコールサインを決め、笠原さんはマンガの人気者の名をもじってJFMT、また梶井さんはジャズファンであったのでJAZZをつけた。

日本のハムが誕生した瞬間

当時、笠原さんは西の宮に、梶井さんは大阪に住んでいた。西の宮が送信、大阪が受信ということで役割分担し、あらかじめ送信時間を毎晩決めておいて「こちらはJFMT、大阪のJAZZ聞こえますか」とモールスをたたいた。大阪で受信した梶井さんは、翌朝、勤務先から電話で「夕べは良く聞こえた。すばらしい」などと受信状況を連絡した。中学生だった笠原さんは学校へ行ってしまっているのでお母さんが電話を受けて、帰宅した笠原さんにそれを報告するというパターンだった。それは一方通行とは言え、日本のハムが誕生した瞬間だった。大正14年の秋のことである。

それぞれ勝手なコールサインで楽しんでいたハム仲間

この頃、2人以外にも関西にハム仲間がいた。日本電力の草間貫吉(J3KK)さん、ソニーの創業者の井深大(J3BB)さん、関西学院の谷川譲(J3WW)さん達だった。それぞれ勝手なコールサインをつけて楽しんでいたが、この関西をJ3に、関東をJ1、東海をJ2という提案をしたのが笠原さんだった。関東と関西の交信が成り立った大正15年(昭和元年)JARL(日本アマチュア連盟)が発足する。

日本のアンカバー局米国と交信

日本で最初にアマチュア無線の免許を発効したのは昭和2年9月であり、厳密にアンカバーと呼ばれるのもこのあたりからのことになる。実は、この年の初めに日本のアンカバー局がAJ1FMのコールサインでロスアンゼルスのハムと交信したのを傍受した在米邦人宮内氏がAJ1FM局あての受信証の伝達を日本逓信省に依頼したことから一もんちゃくが起きた。AJ1FMは佐藤健児さんで日本軍の軍曹として陸軍の通信班にいたが、本職の傍ら片手間にアマチュア無線も楽しんでいた人だった。

佐藤軍曹と矢木さんがハムに夢中

我が国のアマチュア無線草分けの1人で、東芝に勤務した矢木太郎さんが立川の飛行連隊に入隊した時、無線技術をかわれて通信班にまわされた。そこにいた班長が佐藤軍曹で、矢木さんと意気投合、2人のハム熱はヒートアップしていった。「通信演習」といっては、ハムに熱中、消灯ラッパが鳴ろうとかまわず「CQ、CQ・・・」とキーをたたいていた。「夜も寝ずに無線の演習をやっている」と感謝状が出されるといった笑い話もある。AJ1FMのおかげでとばっちりを受けたのが仙波さん。逓信局から電波を出している仲間を報告せよと命令された。

佐藤健児さんは浜松にもいたことがあり、そのころのシャック(JARL浜松クラブ会報)

始末書で済んだアンカバー

ハムグループ「JARL」の存在を知った逓信局は梶井さん、谷川さんと1人ひとり呼び出して「違法だからやめるよう」に忠告、始末書を書かせた。その後、JARLのメンバーは「日本でもアマチュア無線局を正式に認めてほしい」という陳情と願書を繰り返し出した結果、昭和2年9月に待望の免許が草間(J3KK)さん、梶井(J3CC)さんなど9人に降り、正式にコールサインももらっている。

通信省の柔軟な裁きでアマチュア無線局がスタート

アマチュア無線局設定の根拠となる法律が無かったので逓信省は、学校や官庁の実験のための局として当時の無線電信電話法を広義に解釈してくれたのだった。ハム達の熱意もさることながら、無線技術の必要性を理解したお役所の柔軟な裁きも見事である。いつの間にか「お役所仕事」などと非難されるようになってしまったが、昔は使命感と誇りをもった役人が多かったのだろう。

昭和4年アマチュア無線規定確立

逓信省がアマチュア無線規定を確立させたのは昭和4年9月だった。日本を9地区に分けて呼出符号をJ1~J9まで決め、空中線電力10W以下、許可周波数は1.7MHz、3.5 MHz、7 MHz、14MHz、28 MHz、56 MHzの6種類とやや緩やかになったが、バンドとしての許可もなく、1日11時間という制限付だった。昭和7年6月20日付けの東京都新聞では、当時のアマチュア無線局数を346局と報じている。地域別では、東京96、大阪83、仙台31、名古屋24、札幌20、熊本14、広島8、その他70で、これ以外にも「アンカバーが全国で5000人以上いるのが問題だ」と報じている。

『参考文献』 週刊BEACON(アイコムホームページ)、アマチュア無線のあゆみ(JARL編)、日本アマチュア無線史(元朝日新聞社記者・小林幸雄著)、日本アマチュア無線史(電波実験社・岡本次雄、木賀忠雄著)