終戦の焼け野原に始まったアマチュア無線再開運動

戦後、アマチュア無線再開における関係者の努力は大変であった。第2次世界大戦中、禁止となったアマチュア無線の再開運動が始まったのは終戦直後からだった。敗戦のショックから、国民全体が無気力状態にあり、都市は爆撃で焼け野原となり、衣・食・住にもことかく中で、戦前からのアマチュア無線家が再開に向けて立ち上がったのである。
終戦のわずか3か月後にはJARLの再建の動き

大正15年(1926年)に結成されたJARL(日本アマチュア無線連盟は)太平洋戦争中に壊滅状態になった。多くのハムが前線の通信部隊で活躍し、国内では必死になって軍用通信機の開発、生産に取組み、少なからぬハムが返らぬ人となった。終戦のわずか3ヶ月後、JARLの再建に取り組み始めたのは生残った東京中心のハム達であった。
「日本の無線技術を世界トップレベルに」との熱い思いが原動力に

JARLは再建されたが、アマチュア無線の電波が空を飛ぶまでには実に7年もの苦難の道を歩まざるをえなかった。その困難な再開運動を辛抱強く続けることができたのは、単に個人としてアマチュア無線を楽しみたかったというだけではなく、日本の無線技術、エレクトロニクス技術が世界に比べ遅れていたことを身をもって戦争で体験し、日本の無線技術を世界のトップレベルにしたいという思いが強くあったからである。
新しいエレクトロにクス産業の核としての無線通信

戦前のハムのほとんどは高学歴であり、さらには経済的にも恵まれていた人も多く、いわばエリートでもあった。それだけに焦土と化した国土を復興させ、経済的にも豊かな国にするための方策にも頭を巡らせたといっても良い。当時、無線通信技術がエレクトロニクスの最先端であることを知っていた彼らは、ラジオ受信機、そしてやがて始まるであろうテレビ受像機事業、また、新しいエレクトロニクス産業の核となるのが無線通信と察していた。それが資源の無い日本の進むべき道の一つであると確信したからである。
逓信院電波局長宮本吉夫氏と安川七郎(J2HR)さん会見が端緒

戦後のアマチュア無線再開運動は、どのような形でいつスタートしたのか混乱期のため詳細な資料は残っていないが、田母上栄(J2PS)さんが記録した「田母上メモ」によると、アマチュア無線再開運動の端緒となったのは、昭和20年9月5日、逓信院電波局長宮本吉夫氏に安川七郎(J2HR)さんが会い、アマチュア無線再開の必要性を説いたことである。
アマチュア無線の有志に逓信院が再開の具体案を問合わせ

この「田母上メモ」によると、「日本の再建の一助として科学振興を計らねばならない。それにはアマチュア無線を発展せしめる事はその意義が大なる事、その必要性を説き、同氏は諒とされ・・・(略)・・・両氏の交渉の結果、どのような方法又は形態で再開するか、戦前の主なものの意見を聞く事になり、(戦前の)最終コールブックにより数名のものに案内を出し集合の上意見を聞く事なり・・(以下略)」とあり、宮本電波局長と安川さんの個人折衝の結果、逓信院はアマチュア無線の有志に対してアマチュア無線再開の具体案を問合せることになったと記している。
アマチュア無線再開に明るい感触を得た有志達

これを受けて昭和20年10月3日付けでJARL創立に加わった森本重武(J1FT)さんなどに意見を聞くために集合するよう東京逓信局から手紙が届いた。実際に集合したのはどの範囲の人だったかの正確な記録はないが、森村喬(J2KJ)さんは「何人かが集まったが、フェニックス(不死鳥)は立ち上がったという強烈な印象だった」という。また、安川さんは「僅かのソファに座れるくらいの人数だった」と語っている。いずれにしても、数人程度のごくわずかの人数だったようだが、アマチュア無線再開について明るい感触を得た有志は、再開に向けては立ち上がったのである。
不思議な縁で知り合った安川さんと宮本さん

実は、安川さんと宮本さんとは不思議な縁で知り合うようになった。終戦間際、安川さんは田園調布の宮本さん宅に下宿していた。宮本さんが逓信省に勤務していたのを知ったのは、戦後、宮本さんが電波局長になってからであった。そこで、安川さんも気安く接触が出来たといえる。

八木博士とJARL理事達がGHQを訪ね陳情

一方でJARLは八木・宇田アンテナの開発者で当時、東京工業大学学長であった八木秀次博士を担ぎ出した。昭和21年3月、八木博士とJARLの理事達はGHQ(連合軍総司令部)を訪ね陳情文とJARLの規則書を提出した。戦後の日本はGHQに統治されており、すべてがGHQによって決められていたからである。

友好的な回答をしてくれたGHQ

GHQ側は、八木・宇田アンテナの発明者である八木博士が直接訪問したことに最大の礼を尽くしたという。そして八木さん達に「検閲の問題で早急に許可が与えられない。規則については逓信院と交渉せよ。そして機運が向いたら我々も援助を惜しまぬ」と友好的な回答をしてくれたのだった。ちなみに戦時中、欧米では八木・宇田アンテナを盛んに軍事用に活用していた。しかし、日本軍はその存在さえ忘れたかのように無視していたいきさつがある。

免許再開の歎願書を出した人にGHQからリッジウェイ中将名で返書が送られてきた。

再開までに以外と手間取ることになった検閲問題

戦後、米ソは政治体制でますます溝を深め、米国中心の資本主義諸国は、日本をソ中らの共産勢力の日本はもちろん東南アジアへの浸透防止の防波堤として位置付けていた。このため、日本国内での無線通信の送受信にも神経を尖らせており、交信内容の検閲という厄介な問題があるため、すぐに再開許可は出そうもなかった。しかし、八木博士らは再開に向けて明るいめどが立ったような気がしたらしい。ハム達の間にも早期にアマチュア無線再開許可がなされそうな雰囲気が漂っていた。しかし、アマチュア無線再開に漕ぎ着けるまでには意外と手間取ることになる。特に言葉の問題があった。日本語による交信をどのように検閲するのか、実際の運用面においてGHQでは難しいと考えていたからである。さらに、もう一つの問題は連合軍が自由自在に電波の周波数を使っており、アマチュア無線バンドも米軍関係ハムによって占められていた。

朝鮮戦争が勃発で事態はさらに悪化

JARLは、その後も政府やGHQの要人に陳情を続けるとともに、戦前に無線を通じて交流を深めた米軍のハム仲間に会い、協力を求めたり、ARRL(アマチュア無線連盟)にも支援を求めたりあらゆる手を尽くしていたが、いっこうに再開のめどがたたなかった。再開どころか、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発すると事態はさらに悪化する。

過酷だった不法電波の取り締まり

不法電波の取締りが一層厳しくなったからである。GHQや日本政府による不法電波の取締りは過酷であった。あまりにも遅いアマチュア無線再開に業を煮やしたハム達の中にはアンカバーと呼ばれる不法行為に走る若者が増えだしていた。同じ敗戦国でもイタリアでは終戦直後に再開され、西ドイツでも3年後の1949年には再開されていた。

アンカバー通信で多くの若者が逮捕される

西ドイツでの再開では盛んにアンカバー通信を行うことで、連合軍に免許を許可せざるを得ない状況をつくり上げる作戦がとられた。これに刺激された日本のハム志望者がアンカバー通信を行なったのである。当然、電波監理局に傍受され逮捕されてしまうが、つかまるのは学生や未成年者が多かった。何とかこのような不幸な若者達を必死に救おうとした人がいた。クリスチャンでもあった庄野さんである。
表立って再開活動したJARL以外にも個人で多くのハムが活動

JARLは組織として表立って再開活動を続けていたが、庄野さんのように個人で動いていた戦前のハムもいた。庄野さんは、所属教会の先輩である堀内健介前駐米大使に相談したり、米国に知人の多い塚原要牧師にGHQの要人の紹介を依頼したりしてGHQの許可を得るべくアマチュア無線再開に必死に努力した。ある時、電波監理委員会の石川課長に「アマチュア無線不法局の取締りの激しさ、また、JARLからの再開要請の申請書が上に届いていない」ことなどを説明した。

JA1AAとなった庄野さんの無線局免許申請書

庄野さんの説得で石川課長がGHQとの交渉にのりだす

話しを聞いた石川課長は「君が申請書を書き給え。それをもって、GHQの通信委員会と交渉するから」と思いがけないことを言った。庄野さんにとってはまさに「正に晴天の霹靂」で飛び上がって喜んだ。早速、石川課長から放送局申請書の雛型を借りて、申請書を3通作成し提出すると、石川課長は即座に「いいだろう。動くぞ」と言ってくれた。

GHQから「アマチュア無線禁止の覚書を解除」の返書

その言葉を聞いた庄野さんは、すぐに電波監理局を飛び出し、一緒に再開活動をしてくれていた仲間に声をはずませ報告するとともに、JARL本部やJDXRC(全日本DXラジオクラブ)の仲間たちにも連絡した。また、庄野さんは「アマチュア無線再開」の嘆願書を作成し、友人達にも同文の嘆願書を作成してもらいGHQの総司令部に提出した。その努力の甲斐もあって嘆願書を出した人には、GHQから「アマチュア無線禁止の覚書を解除したので、日本政府と交渉されたし」という返書が送られてきた。

嘆願書を提出した阿部さんにも同様の返書が

戦後初の予備免許を受けた30名の中の1人である阿部(JA1WA)さんも嘆願書を提出していた。すると連合軍最高司令官のリッジウェイ中将から、庄野さん同様の返書が送られてきた。阿部さんは「団体のJARLだけでなく嘆願書を提出した個人対してまでも最高の役職の人から文書が送られてくることに驚いた」という。

免許申請で多くの仲間を助けた庄野さん

さらに、庄野さんはアマチュア無線再開後も免許申請で多くの仲間を助けている。大阪の島伊三治(JA3AA)さんも庄野さんに助けられた1人である。島さんは大阪逓信局に勤務しており免許申請の知識はあったが「東京の庄野さんから送られてきた申請書の写しが非常に役立った」と当時を振り返る。それほど免許申請書は複雑面倒なもので、アマチュア無線技士合格者は皆、免許申請時にその煩わしさに手を焼いていたのだった。

JA3AAとなった島さんの無線局免許申請書

九州の井波さんも庄野さんの指導を受け申請書作成

九州の井波眞(JA6AV)さんも庄野さんに免許申請書で助けられた。井波さんはハムになってからは九州地方本部長を18年間、JARLの理事を24年間、さらにJARL副会長として16年間務め、アマチュア無線業界の発展に多いに貢献した人であるが、アマチュア無線開局に当たっての書式の複雑さに悩んでいた時、庄野さんの指導を受け申請書を作ることができ、無事予備免許が得られた。

今でも感謝している庄野さんに助けられたハム達

「申請書は極端に言うと、1つの放送局を立ち上げるような複雑な書類が必要だった。庄野さんの指導が無ければ開局は大幅に遅れていただろう」と、放送局勤務でいわばプロの井波さんも難題であった申請書作りでお世話になったことに感謝している。庄野さんに助けられたハム達は、今でも、庄野さんからもらった手紙を大事にしており、庄野さんと1度でも交信したことを誇りにしているハムもいるほどである。ただし、庄野さん自身は「私は裏で支えただけ」と当時を静かに振り返る。
昭和25年6月1日に電波法が施行され期待高まる

表立って動いたJARLや、裏から支えた大勢の関係者が、アマチュア無線再開への努力を続けた結果、昭和25年6月1日に日本の放送や無線通信の方向や規則を決めた電波法が施行された。再開を待ち望んでいたハム志望者は明日からでも電波を発射できるような期待に胸はずませたのだった。

実に7年の長い年月を要したアマチュア無線再開

しかし、GHQはアマチュア無線を許可することを承認せず、当然、無線従事者のアマチュア無線技士の国家試験も延期された。そして第一回のアマチュア無線技士の国家試験が実施されたのは、1年後の昭和26年6月になってからであった。GHQがようやく“アマチュア無線禁止に関する覚書"の解除を通告したのは昭和27年(1952年)3月11日のことだった。アマチュア無線が再開されるまでは、実に再開運動をスタートしてから7年の長い年月を要したのである。

「アマチュア無線大国」の下地となった新免許制度

遅れて再開されたアマチュア無線制度だが、現JARLの原昌三会長(JA1AN)は、制定された免許制度について「この国家試験制度は世界的にも画期的なもの」と評価している。それはCW通信のできるクラスを1級とし、CWができなくても音声のみの通信ができるクラスを2級として許可したことである。これがアマチュア無線に入門しやすくし、後に日本が世界1の「アマチュア無線大国」になる下地となった。そしてエレクトロニクスに興味を持つ若者を育てるきっかけとなり、今日のハイテク国家としての地位を築いていったのである。


『参考文献』
週刊BEACON(アイコムホームページ)、アマチュア無線のあゆみ(JARL編)、日本アマチュア無線史(元朝日新聞社記者・小林幸雄著)、日本アマチュア無線外史(電波実験社・岡本次雄、木賀忠雄著)