カラオケを発明した人の特定は困難

カラオケボックスは日本全国どこに行ってもあり、歌の好きな人なら誰でも好きな時に歌って楽しむことが出来る。さらに、カラオケは欧米やアジア各国にも普及しており、日本が生んだ世界的なエンタテイメントとして音楽文化に貢献している。そんなカラオケだが“カラオケを発明した人は誰”とたずねても明確な答えは返ってこない。そもそもレコードならエジソンが特許を取っており、「レコードはエジソンが発明した」と言えるのだが、カラオケは、私が発明したと特許を取った人はいないのである。さらに、現在のカラオケ装置となる以前のきわめて初期のカラオケのようなものが造られた1960年代から1970年代前半においては、新聞や雑誌、テレビなどマスコミのカラオケに対する関心は薄く報道された記録も少ないので、検証しようもないのである。また、「必要は発明の母」と言われるが、何時、何処でどんな必要性があってカラオケのルーツとなるようなものが誕生したのだろうか。このあたりにカラオケ誕生のヒントがありそうだ。

歌の無い(カラ)オーケストラ(オケ)からきた造語が“カラオケ”

そもそも“カラオケ”とは、何をもってそう呼ぶのか?これが曖昧では、誰が発明者かも決められない。“カラオケ”の語源を様々な百科事典で調べると、歌の無い(カラ)、オーケストラ(オケ)だけの意味からきた造語で“カラオケ”となったと解説している。ラジオ放送においては、歌手の歌を入れないオーケストラだけのものをMMO「ミュージック・マイナス・ワン」と局内で言っていたようだ。この歌の入っていない歌謡曲を放送したのが、1951年9月2日から新日本放送(現:毎日放送)で放送開始の「歌のない歌謡曲」という番組が始まりだった。現在でも各地の放送局で放送されている長寿命番組である。

1960年代後半には“カラオケ”という用語が使われた

放送局内では1960年代後半には歌手が自分の歌の伴奏用にテープを持ち込むことがあり、これをカラオケテープと呼んでいたので、すでにこの頃から“カラオケ”という用語が使われていた。また、1940年代後半にはアメリカでMMO「ミュージック・マイナス・ワン」呼ばれるLPレコードが発売されていたが日本国内では発売されなかった。このLPレコードは、歌手の声を抜いた物だけでなくオーケストラの一つの楽器を抜いたものもあり、その抜いた楽器のパートの演奏者が練習に使ったという。

テイチクがカラオケLPレコード「石原裕次郎、八代亜紀ヒットメロディー」を発売

日本では、1974年にテイチクがカラオケLPレコード「石原裕次郎、八代亜紀ヒットメロディー」などをシリーズで発売している。発売にあたり「こんな歌の入っていない伴奏だけの商品が売れるのか?」と、社内でも疑問視されたという。しかし、いざ発売してみると予想以上に好評だったようだ。カラオケLPレコードが商品として成り立つと知った同社では、2年後の1976年にカラオケテープも発売している。

根岸重一さんがマイク付き装置とテープ、歌詞カードの3点セットを考案

MMO「ミュージック・マイナス・ワン」がカラオケソフトのルーツとするなら、ハード面のカラオケ装置は何処の誰が最初に発明したのだろうか?  こちらも何を持ってカラオケ装置と呼ぶのかを定義する必要がある。一般社団法人 全国カラオケ事業者協会のホームページにある「歴史の証言」によると1967年頃、当時、日電工業の社長だった根岸重一さんが、マイク付き装置とテープ、歌詞カードの3点セットを考案し、「歌のない歌謡曲」のテープを使ったカラオケセットを考案したことが掲載されている。つまり、カラオケ装置と呼べるのは、マイク入力端子のあるアンプとスピーカー、これに接続するマイク、演奏だけのソフトと歌詞カードがセットになったものとなる。当時、根岸さんが経営する日電工業は、カーステレオメーカーから組み立ての外注を受けていたが、歌好きの根岸さんはある時に8トラックのカーステレオにマイクミキシング回路を組み込んで歌えるようにしたら面白いとひらめいた。工場の技術者に聞くと簡単に出来るとの答えが返ってきた。そこで、カーステレオにマイク端子を付けて歌えるようにした。そして、知人を頼りに放送局に行き担当者に頼むと、“カラオケですね”と言って運良く「歌のない歌謡曲」のテープを借りることが出来た。当時、すでに放送局では歌のないオーケストラだけの歌謡曲をカラオケと呼んでいたという。

時期が早過ぎたのか「カラオケ」としては日の目を見られず

根岸さんは、借りてきたテープを8トラック用に編集して8トラック用プレーヤーとともに「これがカラオケです」と、国際商品という会社に販売を持ちかけた。しかし、社長の濱須光由さんから「そんなカンオケみたいな変な名前では売れない」と言われたという。カラオケという聞きなれない響きは、世間の人にとって“カンオケ”や“空の桶”を連想さたようである。結局そのセットの中から8トラックプレーヤーだけを販売することになった。そして、高価なジュークボックスをイメージさせる「ミュージックボックス」や「スパルコボックス」「ミニジュークボックス」などの名称で売りだした。

また、100円硬貨を入れるためのコインボックスも作るように指示し、タイマーを押すとコインが落ちてスタートする仕組みにしたが、当初はコインが詰まって苦情となったりしてその改良に苦心したという。その後、早送り装置やエコー装置の追加を指示し、後のカラオケ装置と呼べるレベルまで仕上げた。こうした改善への努力や、販売方法も機器を売るのではなく、設置してコインボックスの売上を分け合うシステムにしたことでヒットし、グループ会社全体で6年間に約8,000台販売している。しかし残念ながら時期が早過ぎたのか世間で「カラオケ」として呼ばれることはなく終わっている。
 


写真:全国各地に展開されているカラオケボックス

参考資料:一般社団法人 全国カラオケ事業者協会HP、レジャー白書、JASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)、カラオケを発明した男(大下英治著 河出書房新社)、カラオケ秘史(烏賀陽弘道著 新潮社)、日本ビクターの60年(日本ビクター編)、「SOUND CREATOR」(パイオニア編)、他