カラオケのもう1人の発明者 浜崎巌さん

カラオケのもう1人の発明者として、全国カラオケ事業者協会のカラオケ歴史年表に掲載されているのは浜崎巌さん。浜崎さんは1968年頃にスロットマシンなどの娯楽機械を輸入して販売する会社「昭和娯楽」を経営していた。そして、膵臓病のため入院中、BGMを聴いていた時に8トラックカートリッジを使って小型のジユークボックスを作れば売れるのではないかと思いついた。当時、すでにジュークボックスは広く普及していたが、レコード盤を使った大型のものばかりだった。その上、レコード盤のジュークボックスは大きすぎて導入しようにも、カウンターだけといった小さな店では置けなかった。「もし小型化が可能ならカウンターだけの狭い店にも置いてもらえるはずだ」とひらめいた。

1970年に小型のジュークボックス「ペティジューク203」を完成

そこで浜崎さんは、この頃、すでに普及していた8トラックカートリッジのカーステレオを応用すれば、もっと小型のジュークボックスを作ることができるのではないかと考えた。そして1970年4月に完成したのが「ペティジューク203」だった。ソフトは、8トラックカートリッジ1巻に24曲を入れ、6本(後に12本)を付けて販売開始した。タイマーも装備しており、100円を入れると30分間だけ聴けるようになっていた。しかし、「ペティジューク203」はレコードジュークボックスのようにただ音楽を聴く装置に過ぎなかった。現在のカラオケのように音楽に合わせて歌う装置ではないので、カラオケ装置とは言えなかった。付属の8トラックカートリッジは、あくまでも再生専用の音楽テープであり小型のジュークボックスに過ぎなかった。それでも狭いバーやスナックなどに良く売れた。

「ペティジューク」に歌手の声だけ小さくして再生する機能を付加

やがて、「ペティジューク」を導入している店から「この機械で歌えるようにして欲しい」という声が寄せられようになった。そこで歌手の声だけ小さくして再生する機能を付け、オーケストラの演奏に合わせて歌えるようにした。この歌だけ小さな音量で再生する機能は、後に一般の家庭用ステレオなどにも搭載されるケースもあった。ステレオ・レコードの場合、左右のチャンネルにはオーケストラの音が左右に分かれて、それぞれの楽器の音は別々に録音されている。そして歌手の歌声は左右に同じ位相で録音されるのが一般的だった。そのためオーケストラの演奏は左右に広がり、奥行感も出る。これに対して歌手の声は左右のものが中心で合成されセンターで歌っているように聴こえる。この歌手の声だけを左右の位相を逆にして再生すれば打ち消される。現在のノイズキャンセラーのような原理だ。この方法を使えば完全に消えることはなくてもかなり小さい声となって再生されるので、現在のカラオケソフトに近いものになる。

マイクミキシング機能を付けた「歌えるジューク」を販売

浜崎さんは、その後この機械にマイクミキシング機能を付ければ、もっと面白いじゃないかと思いついた。そして、1970年に事業化を決意し帝国電波(現在のクラリオン)に製造を依頼、マイクミキシング機能を付けた「歌えるジューク」として販売した。これは、現在のカラオケ装置にかなり近づいたものといえる。この「歌えるジューク」がバーやスナックで大変な人気を呼び、東京だけでなく全国に広がって行った。やがて知名度が上がるにつれて「歌えるジューク」の真似をする業者も出てくるほどだった。ただし、この頃のテープの中身は貧弱で、民謡や軍歌が多かった。大手のレコード会社が出しているような流行歌を簡単には利用させてもらえなかったからだろう。

「歌えるジューク」の発売時、スナックなどで客が歌うことはまれだった

古来より我国では結婚式や祝い事があると宴席には酒と歌がつきものであり、宴たけなわともなれば大きな声で歌う人が多かった。しかし、居酒屋やスナックでは、ギターの弾き語りや、流しの方に金を払って楽しむのが一般的であり、客が歌うことはまれだった。そんな時代に登場した「歌えるジューク」だけに、酒場の客の中には「なぜ人前で金を払ってまで歌わなければならないんだ」といった雰囲気が強く、まだ現在のカラオケのように誰もが歌って楽しむという雰囲気ではなかった。誰でも好きな歌を気軽に歌えるようになるには5年後の1975年まで待たなければならなかった。

「歌えるジューク」はスプリングエコーに変えて電子エコーを装備

その後、1977年に業界に先駆けて「歌えるジューク」はスプリングエコーに変えて電子エコーを装備した。現在のカラオケ装置は電子エコーがあたりまえとなっているが、いち早く電子エコーを装備した点は注目される。カラオケ装置にとってエコー装置は重要な機能であり、エコー装置の質の良さは販売上のキーポイントとなる。と言うのも、多少歌が下手な人が歌ってもエコーが効いていると、伸びやかな声に聞こえるからだ。これは、風呂の中で歌ったり、トンネルや反響の大きい広い部屋で歌ったりすると歌が上手に聞こえるのと同じ原理だ。

それまでのスプリングエコーは、その名の通り鉛筆ほどの太さで長さ25cmほどの柔らかなスプリングを用いその方の端のコイルに歌の波形の電流を流し、コイル端の永久磁石を振動させる。この振動をもう一方のコイル端にあるピックアップでスプリングの振動を電気信号に変えてアンプで増幅し、スピーカーを鳴らす。この時、コイルを伝わる分だけ時間の遅れがあり、エコーとなって聞こえてくる。原理的にはシンプルだが、振動に弱いなどの欠点がある。これに対して電子エコーは、遅延回路を組み込んだ電子回路であり、省スペースで量産効果も期待できるとともにエコーの質も良く振動にも強い。

すでに1962年にフィリップスが開発した「Cカセ」(コンパクトカセットテープ)がありながら、小型ジュークボックスには3年遅れの1965年に登場した「8トラ」(8トラック・カートリッジテープ)が使われたのは何故だろうか。それは当時、音質面で「Cカセ」は音楽用として性能に問題があったからだ。コンパクトさを追究するためテープ幅を3.8mmと狭くしたため、会議の記録用などにモノラルで使用するのが前提となっていた。音楽用としては不向きであったが、後に優れた磁性体や磁気ヘッドの開発などによって進化、音質面の欠点も改善されて行く。

ステレオ録音可能な音楽用テープメディアとして誕生した「8トラ」

会議などの録音用として開発された「Cカセ」では音楽用に不向きだったため、アメリカで音楽用として音質重視で開発されたのが「8トラ」だった。後にリアジェット社を創業した発明家のビル・リアが中心となり、RCAビクター社など数社がコンソーシアムを結成、1965年にステレオ録音が可能な音楽用テープメディアとして誕生した。テープ幅は6.35㎜と「Cカセ」より広く、エンドレス式を採用していた。モータリゼーション時代に突入していたアメリカでカーステレオ用として音質の向上や扱いやすさを重視して開発されたものだった。

日本ビクターが1967年にステレオ8「CHR-100」発売

「8トラ」は、こうした特性から音楽再生機であるジュークボックスにとっても最適な録音メディアだったのである。RCAビクター社と関係が深かった日本ビクターでは、リアジェット社と独占契約を締結し「8トラ」を日本で最初に生産した。そして、1967年にステレオ8テーププレーヤー「CHR-100」(16,500円)を発売している。
もし、この「8トラ」が誕生していなかったとしたら、我国におけるカラオケ文化の発展は今のようになっていたかどうか分からない。それだけカラオケ発展の歴史において「8トラ」の役割、存在が大きかったと言えるだろう。


 写真:ステレオ8テーププレーヤー「CHR-100」(左)「日本ビクターの60年」から

参考資料:一般社団法人 全国カラオケ事業者協会HP、レジャー白書、JASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)、カラオケを発明した男(大下英治著 河出書房新社)、カラオケ秘史(烏賀陽弘道著 新潮社)、日本ビクターの60年(日本ビクター編)、「SOUND CREATOR」(パイオニア編)、他