[現在の韓国で生まれる]

1938年6月13日、浅井さんは5人兄弟の2番目、浅井家の長男として生まれた。当時、熊本出身で公務員だった父親が朝鮮総督府に転勤となって、現在の大韓民国全州市の役場に勤務していた時のことである。ちなみに浅井さんは男2人、女3人の5人兄弟であるが、兄弟全員が韓国生まれである。

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生後7ヶ月の浅井さん。

1945年4月、6歳になった浅井さんは、その頃ソウル市(当時・京城市)に住んでおり、ソウル市内の青葉小学校に入学した。しかし入学後すぐの1945年6月、父親が今度は現在の北朝鮮北西部で中国との国境に近い、新義州に転勤になったため、終戦は新義州で迎えた。

1945年8月15日の終戦後、新義州はソ連軍に占領され、浅井さん一家が住んでいた家は立ち退きを食らったため、その後両親と兄弟5人の7人家族はテント生活を余儀なくされた。3歳の次男と、生まれたばかりの三女とを両親が1人ずつ背負って、南に向かって歩き続けたことを浅井さんは覚えている。1年以上かかって1946年10月、一家は深夜息を潜めながらようやく38度線を渡り現在の韓国に達し、翌11月、引き揚げ船に乗って舞鶴港に入港、やっとの思いで日本に帰国した。

帰国後は、一旦宇土市にあった父親の実家に戻ったが、すぐに熊本市内の母親の実家に移り、浅井さんは熊本市立黒髪小学校の1年に編入した。年齢的は2年生であったが、終戦から1年間授業を受けていなかったため、やむを得なかった。浅井さんが3年生の時、引き揚げ時の苦労がたたり父親が44歳の若さで他界してしまう。その後は母親1人で5人兄弟を育てていくことになり、再び苦労が始まった。

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黒髪小学校1年に編入した当時。

[ラジオに興味を持つ]

浅井さんは、小学5〜6年生になるとラジオに興味を持ち始め、鉱石ラジオや並4などを制作した。並4というのは、戦前は並の真空管(3極管)を4本使ったラジオという意味で使われていたが、戦後は、検波段に5極管を使ったものでも、高周波増幅段を持っていない4球のラジオは並4と呼んでいた。特に誰かに指導してもらったということはなく、浅井さんは初歩のラジオなどの雑誌を参考にして、友人と一緒にラジオを作った。

1952年4月、浅井さんは熊本市立桜山中学校に入学する。部活動では放送部に入部し、放送演劇などで活躍する。ただし、当時は録音機材が無かったため、いつも生放送であった。一方、中学生になると自作するラジオも高級になり、コイルキットを購入して高1中2(高周波増幅1段、中間周波増幅2段のラジオ)などの製作にトライした。夏休みの自由工作では、毎年、ラジオを出品したという。部品についてはすべて熊本市内のジャンク屋で調達でき、自転車に乗って友人と買いに行った。ちなみに、現在浅井さんは、黒髪小学校ならびに桜山中学校の同窓会の幹事を行っている。

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中学時代の演劇の様子。一番右の人物が浅井さん。

[熊本工業高校に入学]

1955年、中学卒業を控え、進路を決める時期になった。当時は、高校卒業後は就職することが一般的だったため、普通科の高校より、商業高校や工業高校などの実業高校への進学を希望する中学生が多く、よって実業高校の方が競争倍率が高かったという。ラジオいじりが好きだった浅井さんは、当初、国立熊本電波高等学校(現・熊本高等専門学校)への進学を考えた。

しかし電波高校を卒業した後の就職先は、通信士として船に乗るのが一般的だったため、長男であった浅井さんは、長期間家を空ける訳にはいかず、電波高校への進学はあきらめざるを得なかった。電波高校以外の、ラジオや通信に関連する高校はということで、熊本県立熊本工業高等学校の電気科を選んで受験し、無事に合格する。

1955年4月、浅井さんは 熊本工業高等学校に入学する。部活動は、中学時代と同じ放送部を選んだ。放送部では、新しく買ってもらった東京通信工業(現・SONY)製のテープレコーダーを操作して、ラジオドラマなどを制作した。高校2年の時、放送部で作ったラジオドラマをNHKのラジオドラマコンクールに応募したところ、優秀作品として選ばれ、表彰を受けた。

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熊工2年生の浅井さん(後列右から3番目)。ラジオドラマコンクールでNHKから表彰を受けた。

[アマチュア無線を受験]

1956年、高校2年生の時、浅井さんは友人の影響を受けアマチュア無線を知る。まずは自作の短波ラジオでアマチュア無線の受信を行ったところ、まずまず聞こえた。そして毎日アマチュアバンドを聞くようになった浅井さんは、JARLに入会する。JARLからはSWLナンバー(JA6-1092)をもらい、せっせとSWLレポートを送って、QSLカードを収集した。聞いたのはAMモードオンリーで、国内QSOの受信がメインだったという。

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SWLに励む浅井さん。

その年、後にJA6AABを開局する同級生の岡さんと一緒に、第2級アマチュア無線技士の国家試験にチャレンジした。当時のアマチュア無線技士には1級と2級の2つの資格しかなく、電気通信術のない2級を受験した。試験は熊本電波高等学校の校舎で行われたが、残念ながら合格することはできなかった。当時の試験は記述式で、「試験内容はかなり難しかったことを覚えています」と浅井さんは話す。

浅井さんは当時、送信機も試作していたというが、結局その送信機が日の目を見ることはなかった。仮にその試験で合格し、すぐに開局していれば、JA6Sのサフィックス2文字コールあたりが割り当てになったと思われる。

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SWL時代の浅井さんのシャック。