JA6GXP 浅井 渉氏
No.2 放送局に就職する
[ラジオ熊本に就職]
1957年、高校3年になった浅井さんは、放送局への就職を志望していた。学校には、まずNHKから求人が来たがそれは見送った。理由は、NHKは転勤が多かったため、母子家庭の長男である浅井さんは、県外へ転勤になると困るからであった。またNHKの次にはラジオ熊本から求人が来ることがあらかじめ分かっていたことも理由だった。
テープレコーダーと浅井さん。
さらに、もう一つの理由として、学校側は、放送局への就職を希望する多くの生徒に受験の機会を与えるため、放送局は1社だけしか受験を認めてくれなかった。そのため、もしNHKを受験したら、たとえ合格しても不合格でも、次に民放を受けることは許されなかった。このような理由で、浅井さんは県外には転職の無いラジオ熊本株式会社(現・熊本放送株式会社)を選んだ。浅井さんはラジオ熊本を受験して無事に内定をもらう。
ラジオ熊本(略称RKK、コールサインJOBF)は1953年7月に設立され、同年10月1日より放送を開始した新しい会社だったこともあり、「NHKの方が圧倒的に人気が高かったことも幸いしました」と話す。浅井さんは、1958年3月に熊本工業高校を卒業し、翌4月にラジオ熊本に就職する。
[放送局での仕事]
技術部に配属された浅井さんは、先輩からミキサーや、テープレコーダーなど、機械の操作を学んだ。1人で行えるようになると、生放送の時は、スタジオ横の主調整室(ラジオマスター)に座り番組を進行させた。ミキサーを操作し、レコードをかけたり、テープレコーダーを回したりするのが仕事であった。社外で行う街頭インタビューなどは、デンスケと呼ばれるショルダー型テープレコーダーを持ち出して録音を行った。
入社直後に、熊工から同期でラジオ熊本に入社した友人とのスナップ。
当時のデンスケはゼンマイ式で、バネが弱くなってくるとスピードが遅くなるため、ゼンマイを巻き上げなければならなかった。演劇やのど自慢大会などの公開録音の時は、学校の講堂などを借りてお客様を集め、ミキサーや録音機等、大きな機材を持ち込み、マイクを立て、音のバランスをとりながら録音した。
[編集]
社外で録音を行った後は、社に帰って編集作業を行ったが、当時は編集機がなく、オープンリールの磁気テープをはさみで切り、セロハンテープで貼り合わせて編集を行った。録音した音を聞きながら、切るところと繋ぐところで磁気テープに印をつけ、磁気テープを斜めに切った。テープを繋ぐのは技術が要り、ヘッドに対して磁気テープが直角に当たるように、まっすぐにきちんと繋がないと音がぼけてしまった。
音楽の編集は特に難しく、「1小節目を聞いて、2小節目を抜いて、3小節目に繋ぐといった編集を行う場合は、間奏のところでドラムがどんと入った直後で切りました」と浅井さんは話す。今はコンピューターを使って、切ったり繋いだりが正確にできるが、当時は、ニュースも含めたすべての番組の編集を、手作業で行っていた。「入社してからかなり長い間、テープを切っていましたよ」と浅井さんは話す。
ラジオ熊本は、1959年4月1日より、それまでのラジオ放送に加えてテレビ放送も開始した。それに伴って、1961年には社名を、株式会社熊本放送に変更している。浅井さんは1962〜63年頃に、テレビの技術部に異動になった。その後は2、3年ごとにラジオとテレビを行き来したため、いつラジオの仕事をして、いつテレビの仕事をしたかを正確には覚えていないと言う。
ミキサーやテープレコーダーが並ぶ主調整室にて。
[テレビ放送]
熊本放送がテレビ放送を始めた頃は、まだVTR装置は存在しておらず、録画はすべてフイルムだった。音声を編集する際に磁気テープを切ったように、映像の編集では、フイルムを切った。「フイルムの編集は、映像と映像の黒帯のところを切って繋ぎました」と浅井さんは説明する。そのころのカメラには、録音装置がついていないものがほとんどだったため、映像を撮影するときは、同時にデンスケを回して、録音を行っていた。撮影したフイルムと録音した磁気テープは編集が終わると、シネコーダーという機械で映像と音の同期を取って再生したと言う。
その後、映像が磁気テープに記録できるようになると、編集は磁気テープを切る必要があった。「磁気テープに銀粉をかけると、黒帯の部分が目で分かったため、そこに物差しをあてて、カッターナイフを使ってテープを切りました」と浅井さんは話す。当初の磁気テープは幅が2インチ(約5センチ)あり、当時のVTRはかなり大がかりなものだった為、社外に持ち出す事は不可能であった。その後になって、3/4インチ幅のビデオ用カセットテープが開発され、カメラ付のVTRが登場することになる。
[社内にクラブ局が開設される]
1966年、熊本放送の社内にアマチュア無線のクラブ局が開局した。コールサインはJA6YFJが割り当てられた。これは、系列の東京放送(現・TBSテレビ)から非常通信用ネットワーク構築のため、民放連(日本民間放送連盟)に加盟する全国の放送局に出された協力の要請を受けてのものだった。それがきっかけとなり、浅井さんは、忘れていたアマチュア無線のことを思い出す。
JA6YFJで運用中の浅井さん。