[アマチュア無線の免許取得]

社内に開設されたクラブ局がきっかけとなり、アマチュア無線のことを思い出した浅井さんは1966年12月に国家試験を受験した。同年3月に紀代子夫人と結婚した浅井さんは、忙しい時期ではあったが、電話級アマチュア無線技士に挑み、合格を果たす。アマチュア無線界では、1959年に電話級ならびに電信級アマチュア無線技士の資格が新設され、1966年当時は従来の第1級、第2級と併せて4資格となっていた。

免許取得後は、RKKアマチュア無線クラブJA6YFJに入部する。このクラブは、災害発生時の非常通信用ネットワーク構築の目的を持っていたため、予行演習的な意味合いを兼ね、週に1度、昼休みに全国規模でのロールコールがあった。キー局は東京放送のクラブ局が担当し、昼の1210頃から7MHzで行われたという。しかし、RKKアマチュア無線クラブはそれ以外の活動はあまり活発的ではなかった。

[JA6GXPを開局]

浅井さんは、電話級取得後すぐに個人局の開局申請も行ったため、1967年3月31日付けで免許され、JA6GXPが割り当てられた。開局に使った無線機は市販品でTR-1000という型番の50MHzAMトランシーバーだった。これは、ラジオ熊本で同じ技術部にいたJA6AE出田さんの実家が有明無線というハムショップを営んでおり、そのショップで購入したものだった。当時はもう自作の送受信機ではなく、市販品を入手して開局するのが一般的になっていた。

photo

浅井さんの免許申請書(開局申請)の写し。当時は免許申請書の写しが管轄の電波監理局から返ってきた。

このトランシーバーはポータブル機と呼ばれ、乾電池で動作し、肩に担いで移動運用に持って行けるように設計されていた。浅井さんは、このトランシーバーを屋外に持ち出し、ロケーションの良い小高い丘などから運用した。「当時よく移動した場所が、ちょうど今住んでいるあたりでした」と笑って話す。自宅には、3エレメントの八木アンテナを上げ、自作ブースターを付けて、10W運用を楽しんだ。「その頃は50MHzのEsがよく出ていて楽しめました」と浅井さんは続ける。

photo

浅井さんのTR-1000。

[HFを始める]

50MHzAMで開局した浅井さんは、その後HFの運用を始め7MHzに出て全国各地とのQSOを楽しむようになった。開局して1年ほど経つと、ローカルのJA6YG中山さんから影響を受け、海外局(DX)を受信するようになる。アンテナは2エレメントキュビカルクワッドを自作したが、作りがいい加減ですぐにダメになってしまったため、TA-33jrを購入した。

TA-33jrはモズレー社の14/21/28MHzトラップ式トライバンド八木アンテナで、当時大変人気があったアンテナだった。さらに、借家住まいではあったが、立石鋼管の15m2段クランクアップタワーを建柱してTA-33jrを取り付けた。「当初は21MHzを中心にワッチを行いましたが、なかなかDXを呼ぶ勇気がありませんでした」と浅井さんは当時を振り返る。そんな中1967年10月には長女由美さんが誕生し、子育てをしながらの運用になる。

[初めての海外交信]

1968年6月13日、その日は浅井さんの満30歳の誕生日であった。いつものように深夜までワッチを続け、日付が14日に変わった頃、21MHzSSBでローデシア(現・ジンバブエ)のYL局(女性が運用する局)ZE1JEの電波を捕らえた。交信が終わるのを待って、浅井さんは、「どうせ10Wではアフリカまでは届かないだろう」と、冷やかし半分でZE1JEコールした。すると、オペレーターのモーリーさんから応答があった。00時45分の事であった。当時は太陽黒点の最盛期だったことが幸いしたと思われる。

photo

ローデシアから届いたZE1JEのQSLカード。

「まさか飛ぶとは思っていなかっただけに、コールが返ってきたときは震え上がりました。返事があっただけでびっくりして、レポート交換を行った以外は、何を話したのか全く覚えていません」と浅井さんは当時を振り返る。日本時間だと6月14日だが、世界標準時だと13日であり、浅井さんは30歳の誕生日という記念日に初めての海外交信を達成、しかも相手はアフリカのYL局だったという、一生の思い出となるQSOを経験した。

調子に乗った浅井さんは、そのまま朝までワッチを続け、3時間後の3時59分には、同じく21MHzSSBでロシアのUA4SHとの交信を達成した。さらに16日にはフィンランドのOH8OW、17日は西マレーシアの9M2YCとの交信も達成し、海外交信に熱中していく。海外交信の虜になった浅井さんは、徹夜で無線運用し、一睡もせずに出社することが何度もあったという。

[100Wに増力]

徹夜運用を繰り返した結果、DXハンティングの成果は上がっていったが、それでも、出力10Wでの運用では、十分に満足行く結果はなかなか得られず、上級資格を取ろうという気持ちが強くなっていく。そうして1969年、第2級アマチュア無線技士の国家試験に挑み合格した。浅井さんはすぐに100W機のTS-500を手に入れ、出力100Wへの変更申請書を提出した。

photo

増力当時の浅井さんのシャック。机の上にはTS-500と専用スピーカー、棚の上にはFDFM-5、TR-1000が見える。

変更検査は九州電波監理局(現・九州総合通信局)から2名の検査官がやってきた。1969年7月24日、浅井さんは変更検査に合格すると、DXのメインストリートと飛ばれている14MHzをメインバンドにして、本格的なDXハンティングに没頭するようになった。当時のログを見ると、連日、真夜中の2時、3時に運用していた。「そのころは若かったからです」と浅井さんは笑って話す。

photo

7月24日の変更検査の無線検査簿。