JA6GXP 浅井 渉氏
No.4 DXハンティングに熱中(1)
[JY1を仕留める]
出力を100Wに増力し、14MHz帯で運用するようになると、DXCC(異なる国や地域との交信数を競うアワード)のポイントがどんどん増えるようになった。その頃、熊本市内に住む友人局が、14MHzSSBでヨルダン(ヨルダン・ハシミテ王国)の故フセイン国王(フセイン1世・コールサインJY1)との交信に成功し、新聞に記事が掲載された。その記事に刺激を受けた浅井さんは、毎晩、14MHzをワッチし、1970年4月17日の00時35分、ついにJY1をとらえた。
フセイン国王とのQSOはレポート交換だけであったが、一般人が他国の国王と直接言葉を交わす経験ができることなど、アマチュア無線以外ではそう簡単にあり得ることではなく、浅井さんは大変感激したことを覚えている。残念ながらフセイン国王は1999年2月、その64年の生涯を閉じている。その他の国王と言えば、スペインの現国王ファンカルロス1世(コールサインEA0JC)、タイの現国王ラーマ9世(通称プミポン国王・コールサインHS1A)もアマチュア無線家として知られている。
浅井さんが受け取ったJY1のQSLカード。
裏面にはフセイン国王の直筆サインがある。
[楡木に引っ越す]
1972年12月、浅井さんは、開局当初50MHzの移動運用によく出かけていたロケーションの良い場所、熊本市楡木(にれのき)に75坪の土地を購入し、自宅を新築する。タワーは3段式20mHのクランクアップタワーを購入し、庭の真ん中に建てた。
「アンテナはとっかえひっかえ色々と使いました」と話すように、その後頻繁に載せ替えを行った。一番飛んだアンテナはハイゲインの14MHz用4エレメント八木・204BAだったことをはっきりと覚えている。このアンテナはワイドスペーシングのモノバンダーなので、確かに良く聞こえたし良く飛んだ。しかし1バンドしか出られないというデメリットも大きかった。そのため浅井さんは、他バンドのアンテナを重ねて設置したり、204BAまで下ろしてトライバンドのアンテナに変えてみたり、試行錯誤を繰り返した。
[九州DXer’sミーティング]
1976年、九州在住のDXer(海外通信愛好家)の数人が集まり、九州各県合同で年に1度ミーティングを行おうという話し合いが行われた。浅井さんもそのメンバーの一人であった。それまでは、各県ではまとまっていたDXer達が、県境を超えて横のつながりを深め、情報交換を行うことを目的としたもので、同時に毎回、講師を招いて、講演会を行ってもらおうという趣旨だった。各県持ち回りで開催することに決まった。
初回は福岡県が担当することになり、翌1977年、久留米市で、第1回九州DXミーティングが開催され、九州各地から約60名のDXerが参加した。ゲストにJA1KSO伊藤さんを招き、DX全般についての講演を行ってもらった。また夜のミーティングでは珍局へのパイルアップでいつも戦っている他県のライバル達と顔をつきあわせて語り合い、大いに親睦を深めることができたという。ちなみにこの1977年は3月に世界的な超珍エンティティであるコロンビア領マルペロ島へのDXペディションHK0TUが敢行されたが、サンスポットサイクルの狭間でコンディションが悪く、特に西日本は全滅だった。
第1回が成功したため、翌年の第2回は大分県が担当し中津市で開催、翌々年の第3回は熊本県が担当し熊本市で開催された。その後、この九州DXer’sミーティングは、一度も中断されることなく、各県の持ち回りで2010年現在も継続して開催されている。ちなみに2010年の第34回は佐賀県が担当で武雄市で開催された。浅井さんは、第2回、4回、5回、6回を除いて、後はすべて参加している。
[リグを各種取り替える]
開局1年後から現在に至るまで、DXに熱中している浅井さんだが、一時期144MHzSSBに熱中したことがあった。144MHz8エレ2列×2段スタックをタワーに載せてVHFでの国内遠距離通信を楽しんだ。その頃は144MHzSSBのロールコールに参加したり、ミーティングにも顔を出したりした。144MHzではAJD(日本の全エリアとの交信で受賞)を達成し、WAJA(全47都道府県との交信で受賞)も完成こそしなかったが、かなりできたという。
しかし、144MHzの運用にも次第に飽きていき、HFでのDXハンティングに戻った。その頃の浅井さんは、頻繁にリグを取り替えている。HFでは、TX-88A/9R-4Jから始まり、TS-500、TS-801、FL-100B/FR-100B、FL-50B/FR-50B、FTDX-401などを使った。給料やボーナスの大半を無線機につぎ込んで購入したこともあるという。一方50MHzでは前述のTR-1000や、アイコムの50MHzFM機FDFM-5を使っていた。
1973年頃の浅井さんのシャック。
浅井さんは、自身のホームページを開設して、開局当時から使ってきたトランシーバーや周辺機器のコレクションを掲載している。ただし、置き場所が手狭になったことと、将来を見据えて、最近、それら古い機器をインターネットのオークションですべて処分してしまった。「古い機械ばかりでしたが、それでも全部で30万円くらいになりましたよ」と話す。