[JARLに入会]

浅井さんは、SWL時代に准員(JA6-1092)としてJARLに入会していたが、アマチュア無線局開局後は、改めて正員として入会した。開局当時から浅井さんはJARL熊本県支部の活動に携わり、開局翌年の1969年には、もう県支部の役員になった。「役員にはなりましたが、その頃は何をやったかよく覚えていません。おそらく大した仕事はしていなかったと思います」と話す。

1972、73年頃、アマチュア無線人口の増加に伴い、熊本県内にも多くのアマチュア無線クラブが誕生していった。しかし当時の県支部はクラブ同士の横のつながりを積極的に橋渡しする様な行事はあまり行っていなかった。

[ハム連合を創立]

1975年、そんな状況に不満を持った同志が数名集まり、各アマチュア無線クラブ間の親睦を深めようと、熊本県ハム連合という組織を立ち上げた。これは、アマチュア無線クラブの連合体で、10数個あったクラブをとりまとめ、クラブ同士の交流を深め、熊本県内のアマチュア無線の活性化を目的とした。またハム連合へ参加するクラブがJARL登録クラブかどうかは全く問わなかった。初代の会長にはJA6ZT宮原さんが就任し、浅井さんらスタッフは、参加クラブひいては各クラブに所属するアマチュア無線家のために、様々なイベントを立案し、実施していった。

たとえば、ハムの祭典と称する小規模なハムフェアを開催したり、クラブ対抗のソフトボール大会を開催したり、クラブ対抗アンテナ組み立て競争を実施したりして大いに賑わった。ハムの祭典では、熊本市長に出席を依頼したところ、さすがに市長の出席は叶わなかったものの、助役が来て市長に代わって挨拶をしてくれた。アンテナ組み立て競争はグラウンドや展示場等を借りて開催した。「クラブ毎にアンテナの組み立て方が異なって、大変おもしろかったです」と浅井さん話す。この時のアンテナは50MHzの3エレメント八木で、地元の有力ハムショップ熊電総業が全面的に協力し提供してくれたものであった。

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第3回ハムの祭典の案内冊子。

その他、アマチュア無線が活躍するフランス映画「空と海の間に」を日本の配給会社から取り寄せて試写会を行ったこともあった。さらには、8mmフイルムを使い、RTTYやSSTVやATVなどのスペシャルモードを紹介する映画や、フィールドデーコンテストの記録映画などを作って上映したこともあった。映画以外にも、FOXハンティングや抽選会なども開催した。また、家族連れでハム連合のイベントに参加するクラブ員も多かったため、子供達のための小規模な運動会まで開催し、家族みなで楽しめるように配慮した。

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綱引き大会の様子。右端が浅井さん。

[活動資金]

ハム連合はアマチュア無線クラブの連合体であり、ハム連合自体を個人の会員組織にはしなかった。そのため入会資格もなく、各種イベントへの参加は自由であった。会員組織ではないため、会費を徴収することも無かったが、それでも活動資金は必要なため、参加クラブからの寄付という形で集めた。「当時は景気も良く、各クラブから結構集まりました」、「さらに、メーカーや販売店も随分バックアップしてくれました」、「抽選会の景品などは車のメーカーや家電機器のメーカーにも依頼しましたが、どこも良いモノを提供してくれました」と浅井さんは話す。

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ハム連合が主催した九州アマチュア無線フェスティバルのチラシ。

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九州アマチュア無線フェスティバルで挨拶する2代目会長の宮崎さん。

「あの頃は、皆若かったせいもあって、フィールドデーコンテストの事を思い出しますが派手にやっていました。建設会社に勤めるハムなどが、トラックはもちろん、ユンボやクレーンまで持ってきて、まるで工事現場の様に足場を組んで、それをタワーにしたクラブもありました」と浅井さんは当時を思い出して話す。「もろちんテントも、イベントで使う本格的なテントを建てました。ちょうどハム人口が増えていった頃のことです」

[会長に就任]

ハム連合の会長はJA6ZT宮原さんから、その後2代目のJA6TMU宮崎さんに代わり、1982年には3代目の会長に浅井さんが就任した。「創立時からのコアメンバーでしたし、順番だったので依頼を断れなかったからです」と浅井さんは話すが、会長に就任すると、従来の方針を継承し、クラブ同士の交流を深めることを念頭に置いて、各種行事を実行していった。

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ハム連合が発行した会報「くまもとハム連情報」。1982年の第1回九州アマチュア無線ジャンボリーの開催を告知している。当時の会長は浅井さん。

「あの頃は一番アクティビティが高く、一番遊んでいた頃です。日曜と祭日はほとんど家にはいませんでした。回りから見ると母子家庭のようだったかも知れませんね。いまだ娘からは、バドミントンすらしてもらえなかった、と言われます」と、浅井さんは苦笑する

浅井さんが会長になって3年目の1985年、ハム連合として、JARLと離れて活動するよりも、日本を代表するアマチュア無線の組織であるJARLの活動として各種行事を行えたらさらによいと考えた。そこで、ハム連合のメンバーであるJH6UST今村さんが1985年4月のJARL熊本県支部長選挙に立候補した。現職支部長との選挙戦になったが、今村さんは現職支部長を破って当選した。

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今村さんの当選を伝える「くまもとハム連情報」通巻80号。

今村さんが支部長になったことで、それ以後はそれまでハム連合が実施してきた行事の多くをJARLの行事として行うことが可能になった。そのため1985年、熊本県ハム連合は、ちょうど10年間の活動をもって発展的に解散し、それ以降はJARL熊本県支部として活動するようになった。浅井さんは、県支部の運営委員になり総務幹事を務めた。それ以降、2010年の現在に至るまで、25年間にわたって、運営委員として活躍し、今は県支部ホームページの運営管理を主に担当している。