[SSTVコントロールソフト]

浅井さんがSSTVの運用を中断している間も技術の進歩は進み、カラーSSTVの時代となった。また、より綺麗に、より短時間で、高画質のカラー画像を送るために様々なモードが開発されていった。さらに、1998年頃には、スキャンコンバーターを使わずに、パソコンのサウンドカードを入出力インターフェースとして使う高性能なSSTVコントロールソフトが数多く発表され、Window95/98のアプリケーションとして、ヨーロッパ・アメリカを中心に広まっていった。

代表的なものとして、「SSTV-PAL」、「W95SSTV」、「Mscan」、「ChromaPIX」が上げられる。日本でもJG1VEM小出さんらが、雑誌等でこれらのソフトを広く発表し普及し始めた。しかし、何れのソフトも有料もしくはシュアウェアで、1本15,000〜30,000円程の価格であった。それでも浅井さんは、いち早く「ChromaPIX」を購入して、1999年、15年振りにSSTVを再開した。

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スコットランドのGM4NHIとの交信画像。

そんな中、2001年になると、MMTTYの開発者であるJE3HHT森さんが、MMSSTVというソフトを開発し発表した。このソフトもパソコンのサウンドカードを入出力インターフェースとしてカラーSSTVの運用を可能にしたもので、高い性能を持ちながら、フリーソフトとしたことで、あっという間に世界中に広まった。もちろん浅井さんも、開発以来このソフトを愛用している。

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ニューカレドニアのFK8HCとの交信画像。

[SSTVの運用]

1998年に熊本放送を定年退職していた浅井さんは、現役の頃とは違って十分な運用時間があり、当時は毎日のようにSSTVを運用した。この頃には交信相手も多くなっており、国内だけでなく、海外とも交信を行った。その後も飽きることなくSSTVの運用を続け、現在ではコンテストを中心に運用している。浅井さんも所属しているNVCG(西日本画像通信グループ)主催のコンテストや、JASTA(日本アマチュアSSTV協会)主催のコンテストに参加し、上位入賞も果たしている。

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2004年のNVCG主催SSTVコンテストでは国内部門で優勝。

「今は、アナログSSTVのソフトとしてはMMSSTVが世界標準です。かつてはいろいろな有料のソフトが存在しましたが、フリーソフトのMMSSTVが世界標準になってしまいました。作者の森さんは偉大です」と浅井さんは話す。浅井さんには写真の趣味もあり、SSTVで送信する写真の素材は全部自分で撮影している。民放をリタイアした会員で構成されたJRN(Japan Radio Network)に参加し、年に2回程度、全国のあちこちに撮影会に出かけている。

数年前からはデジタルSSTVが登場し、こちらはデジタルならではのデータ補完機能があるため、ノイズのない完全な画像を送受信することができる。浅井さんは、「デジタルSSTVも1年くらい運用してみました。そりゃ画像は綺麗ですが、まるでEメールで画像を送っているような感じがして、私はノイズの中に画像が出てくるアナログSSTVの方が好きですね」と話す。

[FAX]

1980年代中頃、アマチュア無線でFAXが流行った時があった。当時はNTT(旧電電公社)から、有線用FAXの払い下げ品が大量に放出され、これをアマチュア無線用に改造して運用する局が多かった。中古機器なので安価で、機器の入手は難しくなく、さらに改造記事が雑誌などによく掲載されたため、多くのアマチュア無線家がFAX運用を楽しんだ。

新しもの好きの浅井さんは、もちろんFAX通信にもトライした。まずは中古のパナファックス1000を入手してアマチュア無線用に改造した。改造はそれほど難しい内容ではなかったという。その後、中古のパナファックス3000やミニファックスも入手して改造した。特に、ミニファックスは何十台とまとめて仕入れて改造し、ローカル局に配布した。

「まずは改造して楽しみ、次にそれを人に分けてあげて、色々と教えてあげるのがおもしろかったです」、「改造方法も様々で、同じ機械を改造するのにでも、人によってやり方が異なっていましたね」と話すように、浅井さんも楽しみながら色々と試してみた。運用はV/UHFのFMが多く、交信相手はほとんどローカルだった。しかし、FAX通信は一時期ずいぶん盛り上がったものの、やがて下火になっていき、ついには廃れてしまった。

[パケット]

ちょうどFAXが廃れた頃に出てきたのがパケット通信であった。まず、パケット通信を行うにはパソコンが必要であるが、浅井さんがパソコンを導入したのは早かった。言語はBASIC、記憶装置はテープレコーダーの時代から始めた。SHARPのMZ-80というパソコン(当時はマイコンと呼ばれていた)を使い、ソフトは、国内外から色々と購入し、交信ログを付けてみたり、DXCCの整理を行ってみたりしたという。

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浅井さんのシャックに置かれたMZ-80。

パケット通信が流行ってくると、浅井さんはさっそくTNC(Terminal Node Controller)を入手した。TNCとはパケット通信の要になる装置で、パソコンと無線機の間に入れて使う付属装置である。浅井さんは、初めに米国AEAのPK-80、その後タスコ電機のTNC-222を入手した。ソフトは、JE3HHT森さん達のグループJA3YEO BBSスタッフが作ったDXTERMというパケット通信用のソフトを使った。

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浅井さんが使用したPK-80。

[パケットクラスター]

この頃熊本では、熊本パケットクラブ(KPC)が創設されたため、浅井さんも参加した。初めの頃は通信実験目的での運用がメインであったが、1990年代になると「パケットクラスター」という、パケット通信を使って、多人数が同時接続できるDX情報交換のネットが米国で生まれ、世界のDXerの間で爆発的に広まっていった。このネットには、珍局のコールサインやオンエアしている周波数の情報が流れるため、DXハンターにとって貴重な情報源であった。

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浅井さんが使用したTNC-222。

新しいモードに色々と挑戦はしているものの、根っからのDXハンターであった浅井さんも当然導入した。JR6WDレピータを設置している立田山に、パケットクラスターのノード局を設置して熊本のハムに開放し、さらに福岡県のノードとリンクするために八木アンテナを福岡に向けて設置した。当時はまだまだインターネットが普及しておらず、DXのリアルタイム情報の入手は、有線電話やUHF電話でのネットが主流であったため、パケットクラスターの普及は、DXハンターに大きな変化をもたらしたと言っても過言ではない。無線機とTNC、コンピューターを立ち上げて、パケットクラスターに接続しておけば、ホットなDX情報が流れてきたからである。

1990年代後半になって、インターネットが普及してからは、回線が安定していてスピードも速いWEBクラスターが主流になり、パケットクラスターは下火になっていった。そのため、浅井さんもWEBクラスターに乗り換え、それ以降、パケットは運用しなくなった。