[京城で生まれる]

1943年(昭和18年)7月2日、淺海直之さんは、3人兄弟の2番目、淺海家の長男として京城市(現ソウル特別市)で生まれた。父親の諒介さんは国家公務員で、独身時代から京城に住んでいた。一方、母親の榮子さんも、父(淺海さんの祖父)の仕事の関係で京城に住んでおり、2人は京城で知り合い結婚し、淺海さんら3人の子供を持つことになる。

母方の祖父は、逓信省に勤務する電気技術者で、京城放送局(JODK)立ち上げメンバーの一人だったが、試験放送を出して開局した時の話を淺海さんは祖父から良く聞かされた。「祖父は、京城放送局が東京放送局(JOAK)、大阪放送局(JOBK)、名古屋放送局(JOCK)に次ぐ日本で4番目の放送局として開局されたことを誇りにしていました」と淺海さんは話す。京城放送局は、1927年1月から試験放送を開始、同年2月16日に本放送を開始している。周波数は870kHz、出力は1kWであった。

終戦後、淺海さん一家は本土に引き揚げ東京世田谷区に転居している。もっとも当時2歳の淺海さんは、その頃のことは全く覚えていない。その後は大学を卒業するまで、世田谷で暮らすことになる。

少年時代の淺海さんは、姉、妹とは全く趣向が異なり、電気部品をおもちゃにしていた。特に、渋谷区恵比寿にあった前述の母方の祖父の家に行くと、電技技術屋らしく家の中には電気部品がたくさんあり、淺海さんは電線の束やメーター類などをいじって、喜んで遊んでいたという。このころからすでに淺海さんの電気に対する興味の一端が現れていたのだろうか。

[小学校でラジオに出会う]

東京都世田谷区立桜町小学校に通学していた淺海さんは、5、6年生の頃だったか、理科の授業で鉱石ラジオを作った。このラジオはキットになっており、クラス全員が同じキットを購入し、先生の指導を受けながら作るのだが、手順どおりに作れば必ず動作するようになっている。通常であれば製作が完了し、動作を確認して終了であるが、このときの担当の先生がすばらしい先生であった。

先生は、鉱石を変えてみましょうとか、スパイダーコイルを大きくしてみましょうとか、アンテナ線を(小容量のコンデンサを介して)ACのコンセントに接続してみましょうとか、応用までやってくれた。その結果、種々の条件を変えるとラジオの性能が大きく変わったことを淺海さんは鮮明に覚えている。また、これが淺海さんがラジオ作りに熱中していく直接のきっかけとなった。

[中学生になる]

世田谷区立玉川中学校に入学した淺海さんは理科部に入部した。顧問の先生の熱心な指導や、先輩からも色々教えてもらい、0-V-1から始めて、5球スーパーまで作った。しかし、ほとんどは1発で上手く動作せず、先輩に教えてもらいながら直していった。「発振器(部)を作れば発振せず、増幅器(部)を作れば今度は発振するな」、と先輩からからかわれたことを良く覚えているという。

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自作の5球スーパーラジオ。

その頃の自作の「通信型」ラジオは、メインチューニングとスプレッドダイヤルをフロントパネルの左右に付けるのが流行で、真ん中にはパイロットランプとメーターを付け、先輩の作ったラジオそっくりに仕上げた。他の部員もみな同じようなスタイルで作ったという。この頃の中学生時代がラジオ作りに一番熱心で、一生懸命取り組んだ。淺海さんは理科部の他に放送部にも所属し、「放送室で、アンプに使われていた真空管807の勇姿を見たことを覚えています」と話す。

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受信に励む中学生時代の淺海さん。

[秋葉原通い]

電気技術者の祖父は秋葉原に良く出掛けていたようだが、その影響を受けたのか淺海さんも秋葉原が好きで、中学生の頃から良く通っていた。「戦後の闇市的な雰囲気を残したジャンク屋さんが好きでした。独特な人混みと喧噪も好きでした」と話す。「朝鮮戦争休戦後で米軍の放出品が秋葉原にどんどん出てきたのだと思います。受信機BC-348などが店頭に積んでありました」、「このラジオは爆撃機B-29に積んであった高一中三の受信機で、確か当時の秋葉原価格で3万円前後くらいでした」、と話す。

その他、同じようなシリーズのBC-342などもあった。これら米軍の放出品をアマチュア無線の受信機として使っている局もいた。さらにランクが上のBC-779(スーパープロ)という受信機もあった。これは軍の基地などで使われていたものだそうで、当時の秋葉原価格では7〜8万円ぐらいしたように覚えているという。金銭的に恵まれているアマチュア無線局でもこれを使っていた局があった。さらに上に行くと、AR-88、SP―600などという受信機もあった。「こられは、さらに値段が高く、あこがれの軍用無線機でした」と淺海さんは話す。

中学生時代は、近所でアマチュア無線のアンテナを見つけては、友人と一緒に、お邪魔させてもらったことが数え切れないくらいあるという。その頃は、飛び込みでアマチュア無線局を訪問し、先輩局からいろいろと話を聞き、教えてもらう行動は珍しいことではなく、淺海さんも場合も、世田谷の自宅を中心に自転車で動き回れる半径5kmぐらいの範囲のアマチュア局を突撃訪問したという。「ほとんどの局が家に上げてくれました。特に、尾山台駅の近くの局を訪問したとき、ファイナルが813で807プッシュ変調機の立派な送信機、またシャックには見たこともないような大きなステレオがあったことをよく覚えています」と話す。

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淺海さんのラジオ仲間達。

[送信機を作る]

もう時効になったものとお許しいただける逸話だが、淺海さんが初めて作ったのは、ファイナルに電池管3A5を使った50MHzの送信機であった。今で言う特定小電力トランシーバーのようなもので、サイズは大きかったが、電池管のため屋外への持ち出しも可能であった。次に作ったのは、ファイナルに6AQ5を使った50MHzの送信機で、どんなにがんばっても数Wぐらいしか出なかったというが、そもそもRFパワー計など持ち合わせていないため、プレート電圧に電流をかけ算し、さらに効率をかけて、出ているであろうだいたいの出力を想像していたに過ぎない。

この送信機の発振には自励発振器を使ったが、自分の電波がどこに出ているか分からない。そのため、近所のラジオ仲間に電話をかけ、「今から送信するから聞いていてくれ」という様なことをやっていた。「ああでもない、こうでもないと、毎晩のように友人達と実験し合ったが、この頃が一番楽しかったですね」、「でも、これは俗に言うアンカバ(「正規に免許を受けていない局」の意味)時代の話で、懐かしい話ではあるけれど、威張って言える話ではありませんね」と淺海さんは話す。

そのようなこともあり、淺海さんはアマチュア無線の免許を取ろうと思った。それ以前は第1級と第2級しかなかったが、電話級と電信級が新設されることになり、中学3年生の時、朝日新聞社がアマチュア無線講座を開講していた。淺海さんは、有楽町の朝日新聞社まで受講しに通ったことを覚えている。当時、朝日新聞社はアマチュア無線を熱心に応援しており、南極越冬隊の隊員との交信等が新聞記事になっていた。

先輩達は順次アマチュア無線の免許を取得していったが、結局淺海さんは、中学生時代に受験申請書を提出することはなかった。それでも受信は熱心に行っており、SWLによって獲得した全国のアマチュア局のQSLカードで、JARL発行「SWL-AJD」を取得している。「当時は、子供の科学、初歩のラジオなどをよく読みました」と話す。

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淺海さんが取得したSWL-AJD。