[東京都立大学附属高等学校に入学]

1959年、玉川中学校を卒業した淺海さんは、目黒区にある東京都立大学附属高等学校に入学した。この学校は1929年に6年制の東京府立高等学校として開校した歴史のある高等学校で、戦前からあった旧制の高等学校は、戦後の学制改革の際、国立大学になるところが多かったが、そのまま東京都立高等学校として残った経緯がある。

一方、東京都立大学は1949年に東京都立高等学校の敷地内に別に設立された。それに伴い、東京都立高等学校は東京都立大学附属高等学校と改称されている。その際、学園祭(記念祭)などの行事や寮歌は、他の旧制高等学校のように大学には引き継がれずに高校に残り、また多くの先生も高校に残ったと言われている。「そのようなこともあったためか、非常にプライドが高い高校でした」と淺海さんは話す。

「背伸びしたい盛りで、授業のノートは鉛筆ではなく万年筆で取ったりしました。挙げ句の果ては、我々は大人であるから、たばこを吸っても良いのだ、と大真面目に脱線していました」と話す。時は60年安保の時代となり、「我々は大人なんだから、安保も我々自身で考えなければいけない、という雰囲気でした」と話す。周りがそのような状況にある中で、淺海さんも自然に学生活動に傾倒していき、ラジオをやっている暇は無くなっていた。それでもCQ誌だけは毎月欠かさず購読していたという。

余談ではあるが、東京都立大学附属高等学校は、2012年3月をもって、中高一貫6年制の教育課程を敷く東京都立桜修館中等教育学校に改編されることが決まっている。この東京都立桜修館中等教育学校は、2006年4月に東京都立大学附属高等学校の敷地内で開校している。

[水泳部と合唱部に入部]

「高校時代は周りに無線の友人がおらず、学校でアマチュア無線の話をした記憶がない」という淺海さんは、水泳部と合唱部に入部した。当時はだいたい体育会系のクラブと文化系のクラブの両方に入る生徒が多かった。水泳部の方は、泳ぎは得意ではなかったが、体力を付けて体を丈夫にしようという目的での入部であった。

一方、子供の頃から音楽が大好きの淺海さんであったが、戦後もその頃までは、男子が「音楽が好きだ」と公言することがはばかられた時代であった。そのため、淺海さんの姉と妹は小学生の頃からピアノを習っていたが、淺海さんは、「音楽なんて...」と自ら遠ざけていた。それでも家にあったピアノを密かに、しかも一番よく弾いていたのはピアノを習っていなかった淺海さんであった。

淺海さんが通った玉川中学校には合唱部があったが、淺海さんは合唱部の顧問の先生が苦手だった。「本当は音楽が大好きで歌は歌いたかったが、何となく抵抗感があったため入部しませんでした」と話す。そのようなこともあって、高校生になって、念願の合唱部に晴れて入部したのであった。当時の都立大学付属高校は1学年150人の小さな学校であったが、1学年に10人強くらいの生徒が合唱部に入っており、部員は総勢40名くらいだった。「高校時代は、安保と音楽と恋心で、アマチュア無線とは遠ざかっていました」と淺海さんは笑って話す。

[SSBと出会う]

淺海さんは高校卒業後に病気を患い、大学に入学するまで2年間のブランクがあるが、入院中は無線雑誌を読みふけり、自宅療養中には他にやることが無く、自作の受信機でアマチュアバンドをよくワッチしていた。当時は、日本でSSBが出始めた頃で、雑誌にもしばしばSSB関連の記事が掲載されていた。

その頃、米国のメーカー、コリンズ社はすでにアマチュア無線用のSSB無線機を発売していたが、庶民にとっては高嶺の花であり、日本では、お金持ちのごく一部のアマチュア無線局を除いて、ほとんどの局は、自作の道を模索していた。時代は、AM全盛期であったが、7Mc帯の上端、7099kcに一部の先進的な局がSSBで出ていた。後に入会することになるSWAの中心メンバー達の楽しそうなQSOであった。淺海さんは、「SSBは遠くの電波でも良く聞こえて、すごいなあと思いました」と話す。

当時淺海さんが使っていたのは、自作の高一中二の受信機で、AM、CW、SSBが聞けた。さらにSSBの性能を上げるために、当時国際電気から発売されていたメカニカルフィルターが欲しかったが高価で手が出ず、代わりにトリオから発売されていたT-11という型番のIFT(中間周波トランス)を使ったという。また、その頃は、コイルパックと呼ばれる各バンドのコイルとバンドスイッチを一体化したものが発売されており、これも大変に高価なものであったが、それを使うことで自作が容易になっていた。

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SSBの受信に使っていた高一中二の自作「通信型受信機」(写真右下)。

自宅療養時代は受信ばかりしていた淺海さんであったが、自分でもSSBの波を出したくなり、ついに重い腰を上げて、アマチュア無線技士の国家試験を受験した。1962年2月に、電話級アマチュア無線技士、ならび電信級アマチュア無線技士の2資格を同時に取得している。

[JA1OWPを開局]

1964年、淺海さんは慶應義塾大学経済学部に入学する。入学直後にアマチュア無線局の開局申請書を提出し、JA1OWPを開局するが、「そのときは書類だけ出したという感じで、開局後もほとんど波は出さずに、もっぱらSWLを行っていました」と話す。引き続きSSBを主に受信していたが、受信機の安定度が悪く、「周波数がどんどん動いてしまうのでダイヤルから手を離すことはできませんでした」と話す。

もっとも、当時の市販の国産受信機でも同じようなもので、さらに送信側もズレていくので、常に周波数を補正する必要があった。実際、その頃淺海さんが使っていた9R59とTX88Aといったメーカー製のAM機のうち、9R59は今でも棚の奥にしまってあって、「最近は火を入れたこともありませんが、当時の印象では、自作機同様に良く動きました。AMなら多少ずれても問題はありませんが、SSBの場合は100Hzズレてもピッチが変わって復調音が不自然になります」

「今では100Hz単位で周波数を合わせるのは当たり前ですし、デジタル表示が普通なので簡単な話ですが、当時は周波数を10Hz単位はおろか、100Hz単位で直接読み取るシステムはなかったと言って良く、ゼロインするには復調音を耳で聞いて合わせるのが原則でした。このためには多少の訓練が必要で、これも良い勉強になりました」と淺海さんは話す。

送信機については、開局時、前述のTX88Aや自作のAM送信機は持っていたが、SSBの送信機はまだ持っていなかった。もろちん作るつもりではいたが、大学入学後はいろいろと忙しく、送信機を作る時間がなかったことも、SWLが主体の原因となった。送信機を作る時間はなかなか取れなかったが、その頃の淺海さんは、JA1ACB難波田さん、JA1AEA鈴木さん、JA1ANG(故)米田さん、JA4PC高原さん、JA3AQN大塚さんなどの先達が執筆したSSB送信機に関する記事をよく読んだことを覚えているという。一方、音楽の方は、大学時代も合唱部に所属した。