[204BA]

1968年から清水市(現静岡市清水区)で勤務していた淺海さんは、ローカルから譲ってもらった中古の21MHz3エレメント八木から、当時流行の14/21/28MHz用3エレメントトライバンド八木に取り替え、最終的にはハイゲイン社の14MHz用4エレメント八木「204BA」を上げて楽しんでいた。さすがに4エレフルサイズの八木アンテナは当時の装備としては受信も送信も申し分なく、DXハンティングやDX局とのラグチューに熱中していた。

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清水の社宅屋上に設置作業中の204BA

1976年になると東京の本社に転勤になり、淺海さんは杉並区の荻窪にあった社宅に入った。引っ越しが落ち着くと社宅の屋上に約10mの三角タワーを建て、それに清水の社宅から移設した204BAを載せた。「清水時代の勢いそのままにDXを一生懸命やっていました。上げた当初に比べると4エレフルサイズは次第に標準になりつつあり、その分、威力は落ちてきましたが、それでもまだ多少は有意差のある4エレフルサイズでしたので、順番さえ待てば珍カントリーへのDXペディション局ともたいがいQSOすることができました」と淺海さんは話す。

社宅は4階建ての共同住宅だったが、杉並の住宅街のど真ん中にあり、広大な社宅用地の中に建っていた清水時代には気にならなかったアンテナの共鳴(エレメントのアルミパイプが先端部で開放になっていたことから、風で共鳴する現象)が気になった。また、先輩社員の住む隣家が、当時としては大型の豪華版最新型のテレビに買い換えたところ、さっそく電波障害が出て、「私の方は何も変えていないのです。テレビを変えたら電波障害が出るということは、テレビ側に何らかの原因があるとは考えられませんか」と噛み砕いて説明し、テレビメーカーに対策をしてもらったこともあった。

[スイスに留学]

東京に転勤後、淺海さんに転機が訪れる。会社が毎年募集している海外でのMBA(経営学修士)の取得プログラムに応募したところ運良く合格し、1978年6月から1979年6月までの約1年間、スイスに留学することになった。留学先はジュネーブにあったCEI(現IMD)という教育機関で、1年間のプログラムでMBAを取得するコースだった。

このCEIの始まりは、世界最大級のアルミニウム精錬会社1つであり、また淺海さんが勤務していた日本軽金属の出資者でもあったAlcan(現Rio Tinto Alcan)が設立した教育機関であった。Alcanは多くの国に関連会社や子会社を持っており、そこに勤務する若いマネージャーを育成するため、1951年頃Alcanの一教育機関としてこのCEIを作ったと言われる。ただし、淺海さんが留学した1978年頃までにはCEIはAlcanからだんだんと離れていき、ジュネーブ大学の一部門の形になりつつあり、MBAの学位はジュネーブ大学とジョイントで与えられていたという。

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CEIの卒業式でのスナップ。右端が淺海さん。

[MBAを取得]

MBAは一般的に2年間のコースで取得するのが普通であるが、このCEIでは1年間で取得できるコースを持っていた。そんなこともあって勉強は大変であったという。「大学に入る時よりもよほど勉強しました。今、振り返っても自分の人生66年にとってとても大変な1年でした」、「米国のMBAコースなどと比べると色々と異なる点がありますが、小さな学校であったことや、学部を修了して直ぐに大学院に入ってくるのではなく、クラスの同級生の多くは“若手のビジネスマン”といった感じの人が多かったこと、また出身国がバライエティに富んでいたことなどは私にとっては大変に良い面でした」、「何よりも小さなクラスであり、ヨーロッパ各国の、つまり非英語圏のクラスメイトが多かったことが幸いし、友達はたくさんできましたし色々な体験もできました。」と淺海さんは話す。

留学とはいっても、会社業務の一環であり給与が支給された。そのため、淺海さんよりも前の時代は、単身留学を命じられ、家族の同行は認められていなかった。しかし、幸運にも淺海さんの年度から、家族同伴が許されるように社内の制度が変更になったため、淺海さんは、一家5人でスイスに移住した。3人の子供はそれぞれ、7歳、5歳、3歳になっていた。

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淺海さん一家が入居したジュネーブ市内のアパート。(2005年に訪れた際に撮影)

このMBAのプログラムは、9月に始まり翌年6月に終わるが、淺海さんは6月からスイスに飛び、家族で住む家を探したり、勉強の準備をしたりした。その後家族を呼び寄せ、スイスでの生活に入った。「生意気な言い方になりますけれど、この留学が私の職業人としてのカタチを作りました。良い意味でも悪い意味でも視点が変わりました。この留学がなければ、おそらく一生日本軽金属に勤務したと思います」、と淺海さんが話すように、この留学が淺海さんの人生にとって転機となった。

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2004年、スイスのローザンヌで開催されたCEIの25周年同窓会に出席した淺海さん。(前列右)

[東京勤務に戻る]

1979年、予定どおりMBAを取得した淺海さんは東京の本社勤務に戻った。アマチュア無線用のアンテナは、スイスに留学する前にすべて下ろしてしまったため、社宅の屋上に再度設置する必要があったが、帰国後はダイポールアンテナにした。当時、海外への転勤の話があり、様子をみる必要があったために、「とりあえずダイポール」だった。淺海さんは屋上の三角タワーにマストを建て、7MHz用のダイポールと、14MHz用のダイポールを90度離して設置した。上空から見るとクロスに見える展開方法である。

さすがに珍局ハントは厳しくなったが、「ビームとダイポールの差はSにして2ぐらいでしょうか。伝搬状況が厳しい場合とか、パイルになっている場合には大きな差になるし、決定的な差になることもあるけれど、そこそこのコンディションであれば、どっちでもできます。14MHzで米国の局とラグチューする程度なら、全く問題ありませんでした」と淺海さんは話す。

時には相手局から「ダイポールの割には強い信号で来ているよ」のようなレポートをもらうことも多く、一人でほくそ笑んでいたことも多かった。「とても大切なことだけれど、台風が来てもワイヤーアンテナだと気楽でいられるのは、アマチュア無線家であれば誰でも理解していただけることでしょう」と淺海さんは説明する。その後1983年に日本軽金属を退職するまで、ワイヤーアンテナで楽しんだ。

[外資系メーカーに転職]

1983年、日本軽金属を退職した淺海さんは、制御機器やセンサー、情報処理機器を製造販売する外資系のメーカーに就職した。この会社ではコンピューターのハードウェアやソフトウェアの販売やサポートも行っており、淺海さんは人事のマネージャーとして入社したものの、紆余曲折があって営業職を経験することになった。はじめは1年間だけの予定が、最終的には、この会社を退職するまでの3年間、営業の責任者を担当した。「私の最初にして最後の苦しくもあり、でもかけがえのない営業経験でした」と淺海さんは振り返る。

退職によって日本軽金属の社宅を出た淺海さんは、東京都町田市に新居を購入した。さっそくアンテナの検討をしたが、まずはダイポールアンテナを再建することにした。屋根の上には、小型の屋根馬と5m長位のポールにテレビアンテナが建ててあったが、そのポールに沿わせて8m長くらいの竹竿をしばり、それに7MHz用と14MHz用の逆V型ダイポールアンテナを設置した。7MHz用のダイポールアンテナには21MHzの電波も乗るため、これで21MHzも運用したという。展開方法は以前と同じでクロスに設置した。近所から見てもテレビアンテナ用のステーとは見えても、ハム用のアンテナとは解らないような配慮があった。

[V型ダイポールアンテナ]

竹竿は3〜5年でカラカラに乾燥し切ってぼろぼろになるため、べた雪が降ってエレメントに着雪しその重みで倒れ、その都度淺海さんは新しい竹竿を買ってきて修理した。しかし3回目に倒れたとき、竹竿には限界を感じ、4.5mのアマチュア無線用のアルミ製ルーフタワーを購入し専門の業者に依頼して頑丈に建ててもらった。それに、マルチバンドのV型ダイポールアンテナを取り付けた。

これはクリエイトデザイン社の730V1というアンテナであったが、「こんなに短いアンテナが想像以上に飛ぶのでびっくりしました」、「このアンテナで随分遊ばせてもらいました」と話す。珍局のパイルアップに勝つことこそできなかったが、期間の長いDXペディションでは終盤にはQSOできることが多かったという。自局の実力を的確に把握して、DXペディションの始まりは呼ばず、パイルが落ち着いてきてからコールを始めた。