[J.S.バッハ]

淺海さんは、アマチュア無線とならんで50年続けているもう一つの趣味がある。合唱である。合唱の中でも特に教会音楽のジャンルで、最近25年ぐらいは特にJ.S.バッハの曲を好んでいる。このJ.S.バッハとは、18世紀前半に活躍したドイツの作曲家で、「音楽の父」とも称されているヨハン・ゼバスティアン・バッハのことである。

「いわゆるクラッシック音楽は、それぞれ素敵で、心にしみるとか、浮き浮きとして気分が昂揚するとか、和むとか、心が音楽で満たされるとか、色々な言葉で表される音楽的感興がありますけれど、今は全ての意味でJ.S.バッハが空前絶後、最高の音楽家だと思っています」、「余談ですけれど、高校生の頃はベートーベンとかワグナーなんかに惹かれましたし、その後は、音楽は絶対にモーツアルトだと思っていました。もっとも、バッハとモーツアルトを比較して、どっちが上だ等と議論しても正解なんか無いのですけれど」、と淺海さんは話す。

連載第2回でも書いたように、子供の頃から音楽が大好きだった淺海さんは、高校入学と同時に合唱部に入部し、慶応大学入学後も合唱団に入った。「4年間まじめに活動しました。父からは、“大学では経済学部に入って勉強しているというより、音楽部に入ったようなものだ”、と呆れ顔で言われたのは良く覚えています。大学の合唱団では高校時代には体験できなかったような、いわゆるクラシックの大曲と呼ばれるものまでやりました」と話すように、大学生時代はアマチュア無線よりも合唱部での活動がメインだった。

慶応大学の合唱団は各学年にだいたい25人くらいの部員がおり、4学年合わせて総勢100名ぐらいの構成だった。この合唱団は年に一回開かれる定期演奏会のメインに宗教曲を演奏していた。この影響を受けて淺海さんも宗教音楽に深く興味を示すようになっていった。淺海さんが1年生の時までは、慶応高校の合唱部と一緒に活動しており、高校1年生から大学4年生まで7学年の学生が、定期演奏会に向けて一緒に練習していた。「自分は外部の高校から慶応に入りましたが、高校生と大学生が一緒に音楽を創る、そのことにとても新鮮な喜びを覚えました」、「しかしこの合同活動は、高校、大学双方に理由があって翌年から止めになってしまい、正直とても残念でした」と淺海さんは話す。

[定期演奏会]

定期演奏会は、1年に1回、毎年12月に開催され、1年で一番大きな行事であった。この定期演奏会のオーケストラはプロに頼んでいた。しかもそのプロとはNHK交響楽団(N響)のOBが特別に編成される楽団で、いわばプロ中のプロであった。1年間をかける日々の練習はピアノの伴奏で行い、最後の2〜3回は「オケ合わせ」といってオーケストラと合わせた練習を行うのが普通で、このオケ合わせの時だけは港区の伊皿子にあったN響の練習場を借りて行うのが通例であった。素人合唱団にしては、とても贅沢な、恵まれた環境だった。

大学1年生の時の定期演奏会のことは良く覚えている。「G.フォーレのレクイエムという、大変に美しく、しかもポピュラーな曲でした。演奏を終えて、私を含めて一年生は皆、感動で涙が出て止まらなかったのを覚えています」、「何故、涙が出たのかは簡単には説明がつきませんが、間違いなく、一年間の練習の成果と、美しく心の奥深くに届く音楽に感動したからだと思っています」と淺海さんは当時を思い出す。

定期演奏会では、普通は第一ステージ、第二ステージで小さな組曲などを歌い、メインのステージで大曲を歌う。大学時代に歌った曲で一番長い曲は、ドヴォルザークの「スターバトマーテル」(悲しみの聖母)で、80分くらいあったという。「この80分の中には、合唱曲があり、ソロの部分があり、オケのみの部分もあり、全部で確か8曲が1つの大曲を構成していました」と淺海さんは説明する。

photo

定期演奏会の様子。

先述のとおり、淺海さんが2年生の時からは、諸々の理由で高校は高校、大学は大学で定期演奏会を開くようになり、合同で練習して一緒に演奏会をもつことはなくなった。毎年12月の定期演奏会の他には、東京6大学合唱連盟による毎年初夏の6校合同演奏会や、関西学院大学との交歓演奏会などの活動があった。これは、1年ごとに関東と関西の交互に開催したという。

この合唱団は2001年に創立50周年を迎え、創立期のOB/OGから現役までがサントリーホールに揃い、この合唱団が50年間歌い継いできたW.A.モーツアルトのレクイエム他を歌い上げた。合唱は、少年期から熟年、老年に至るまで、それぞれの年齢に応じて新たな発見を重ねながら楽しめるばかりでなく、そこには永く続く友人関係が残されているものと、淺海さんは感謝の気持ちで一杯である

photo

創立50周年記念演奏会のCDジャケット。

[就職後の活動]

就職後、清水市の社宅住まいとなった淺海さんは、清水で合唱団を探して入団した。「清水トゥルベール」というその合唱団は、当時は宗教曲はやっておらず、モンテヴェルディの曲ばかりを演奏していた。「正確には、清水トゥルベールは創立以来、モンテヴェルディよりも更に古い時代の作曲家から、年次を追って順番に挑戦してきていて、私たちが入団した頃に丁度、モンテヴェルディの音楽に取り掛かっていたのです」、「ところが、清水トゥルベールはモンテヴェルディにすっかり魅了され、その後何年間も、モンテヴェルディに挑戦し続けていたのです」と説明する。

モンテヴェルディとは16世紀から17世紀にイタリアで活動した作曲家、クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディのことである。モンテヴェルディの合唱曲には5声のものが多く、不思議な魅力を醸し出している。普通の合唱曲は4声のものが多いが、モンテヴェルディはこれにカウンターテナーを加え、5声としてる曲が多い。カウンターテナーは男性によって歌われることが通常で、男性としては一番音域の高いパートを歌う。「このパートの追加で音楽に独特の響きが付け加わり、魅力的な楽曲になっているように思います。そう言うわけで、当時はモンテヴェルディに夢中でした」と淺海さんは話す。

清水トゥルベールは20人くらいの小さな合唱団であったが、しばらくして榮子夫人も入団した。淺海さん一家には結婚の翌年から、1年おきに3人の子供が誕生したため、榮子夫人は子供が小さいときはなかなか練習にも参加できなかったが、離乳した後は、子供を寝かせて練習に参加していた。「これは清水のような小さな街のメリットで、練習所も近かったので、何かあればすぐに帰宅することができるという安心感があったからです」と淺海さんは話す。