[JARL評議員になる]

1989年、JARLの理事であったJA3FGX西川さんから、突然、次の評議員選挙に立候補して欲しいと依頼があった。当時のJARL評議員は支部ごとの選出になっていたため、京都府選出の評議員になって欲しいという内容であった。つきあいの長い西川さんからの依頼であり、依頼内容に納得した海老原さんは1990年の評議員選挙に立候補した。選挙は対立候補との一騎打ちとなったが、対立候補を大差で破り当選を果たした。「交流のあった多くの友人の支援や、西川さんの支えが大きかったと思います」と話す。

海老原さんの在任中には、ちょうど会費値上げ問題が大きな争点になっている期間だった。その他には、1.9/3.8MHz帯バンド拡張の主管庁への働きかけ、免許申請書類簡略化の制度化などアマチュア無線制度の改善、アマチュア無線衛星「ふじ2号」(JAS-1b)の利用推進等の課題があった。評議員会は年に2回開催され、そのうち1回はJARL総会に合わせて、総会前日の日中に開催。もう1回は1泊2日で東京にて開催された。議案書は先に送られて来るので、内容を十分に吟味してから会議に出席したという。

評議員の任期は2年だが、1992年、1994年にも当選を果たした。評議員3期目に入った1994年、海老原さんは脳梗塞を発症し、京大病院での3ヶ月間の入院加療を余儀なくされた。さらに退院後もめまい症状が激しく、評議員としての職務全うが困難と考え、やむなく原会長に解任を願い出て評議員から引退した。救急病院に運ばれた時、当時京都大学医学部の助教授をしていた無線仲間がおり、その先生から京大病院への転院を勧められ、海老原さんはすぐに転院した。「京大病院への転院は簡単ではありませんが、これもアマチュア無線をやっていたおかげです」と話す。

[DXCC#1オナーロールへの道のり]

1991年9月、アルバニアのZA1AとのQSOをもって、海老原さんは現存する323個(当時)すべてのDXCCエンティティとの交信を達成したが、それに達するまでに思い出に残るQSOが3つあったと話す。まずはポルトガル領ギニア(現在のギニアビサウ)のCR3GF。1965年10月9日、14MHzのSSBをワッチしていた海老原さんは1710jst頃、ロングパスで入感するCR3GFのCQを見つけた。当時のCR3(現J5)は、AAAクラスの珍エンティティだった。「彼がスタンバイするまでの時間が、すごく長く感じられた事を覚えています」と話す。

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海老原さんが受賞したDXCC#1オナーロールの盾。

CR3GFの信号が弱かったことが幸いして、このCQに気付いた局は少なく、スタンバイ後にコールした局は海老原さんも含めて数局であった。海老原さんの自宅は北側に山があるが南東側は何も障害物がないため、アフリカ、ヨーロッパ方面に対するロングパス伝搬には好ロケーションで、幸運にも海老原さんに応答があった。無事にレポート交換を終えQSOが終了した瞬間、大きなパイルアップになった。

それまで静かだった周波数が蜂の巣を突っついたような状態になり、JAでもトップクラスのDX’erたちが猛烈にコールを始めた。あまりのパイルアップにCR3GFはその後数局とQSOしただけで引っ込んでしまった。「誰よりも早く見つけるためのワッチの大切さを、この時改めて痛感しました」と海老原さんは話す。

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CR3GFのQSLカード。

[LU1ZA]

2局目は南氷洋にある孤島・サウスオークニーのLU1ZA。この島には観測隊員などを除いて人が住んでいないため、当時も今も珍エンティティとなっている。この島から1988年にアルゼンチンのLU5EAZがLU1ZAとして出てきた。このLU1ZAはQSOの難しさはもちろん、QSLカードの回収がそれ以上に難しい局であった。海老原さんは、1988年2月4日に14MHzのSSBでなんとかQSOできたため、QSLカードの回収方法を検討した。

このLU1ZAは複数のQSLルートがアナウンスされていたため、海老原さんはすべてのルートにSASEを発送した。回収が難しい一番の理由は、南米における郵便事情が良くないため、送ったQSLカードがQSLマネージャーに簡単には届かないからであった。そのため、海老原さんは複数のルートに何通かSASEを発送した。そのうち一度は書留でも送ってみた。そんな折、「書留だと、重要なものが入っていると思われて逆に届かない」という話も聞いた。

待つこと数ヶ月、ついにLU1ZAのQSLカードが1枚返ってきた。どのルートで出ししたものか、あるいは普通便が届いたのか書留便が届いたのか、さらに何通目のSASEが届いたのかは不明だったが、とにかくサウスオークニーのQSLカードを回収できた。海老原さんは、サウスオークニーの回収により、#1オナーロールに駒を進めた。「もちろんこの他にもQSLカードの回収に苦労した局はありますが、このLU1ZAが一番苦労したので特に印象に残っています」と話す。

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LU1ZAのQSLカード。

当時は返信料としてグリーンスタンプ(米国の1ドル札)を入れていた。IRC(国際返信切手券)よりも、現地での切手への換算率がよく、割安だったためである。そのため海老原さんはしょっちゅう四条烏丸にあった東海銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に両替に行っていた。その支店には米ドルの自動販売機が置いてあり、簡単に1ドル札への両替が可能だったからだ。しかし何年か後には、この販売機は米ドルのパック販売しか行わなくなってしまい、そのため、窓口での両替を余儀なくされ面倒になったという。3局目は、現存DXCCのラストワンとなったアルバニアである。