[ITU京都全権委員会議]

1994年9月19日〜10月14日、京都市左京区の宝ケ池にある京都国際会館にてITU(国際電気通信連合)の全権委員会議が開催された。ITUは、1865年パリで創設の万国電信連合と、1906年ベルリンで創設の国際無線電信連合が、1932年マドリッドにおいて合体し、国際電気通信連合として発足した。加盟国数は約190ヶ国で、本部はスイスのジュネーブにある。

photo

ITU-PP(全権委員会議)での出展者証。

ITUは国際連合の専門機関の一つとして、その目的を電気通信の改善と合理的利用のため国際協力を増進し、電気通信業務の能率増進、利用増大と普及のため、技術的手段の発達と能率的運用の促進においている。全権委員会議はITUの最高機関で、4年ごとに開催され、ITU憲章・条約の改正、連合の活動方針の決定等を任務としている。

世界の加盟国が参加するこの全権委員会議に合わせ、JARLは特別記念局を開設することを決定し、JA3AA島さんが記念局運用委員会の委員長に就任した。また実働部隊の責任者としてJA3AJ小川さんが指名され、JARL京都クラブを中心に運営にあたることになった。自宅から会議場まで徒歩7分というところに住んでいた海老原さんにも声がかかり、喜んで運用委員を引き受けた。

[8N3ITU]

特別記念局のコールサインは8N3ITUと決まり、特例として、会議に参加する外国人によるゲストオペレーションも認められた。これによって、自国のアマチュア無線のライセンスを持つ外国人であれば、日本の無線従事者免許を所持していなくても8N3ITUの運用が行えるようになり、実際に、何人かが運用を行った。もちろん、JARLが開設した局であるため、日本人で無線従事者免許を所持するJARL会員であれば、誰でも運用することができた。

photo

8N3ITUに会食式の様子。

なお、8N3ITUは、9月19日に会議が始まる前に開局し、移動する局から会議のPRも行ったが、それに対してJARLが電波測定車(以下、電測車)を貸与してくれたため、この電測車で比叡山などロケーションの良いところに移動し、海老原さんらはPRの為の運用を行った。ちなみに、この電測車は、1978年の「世界電気通信日」および「CCIR京都総会」の記念局8J3ITUの時に使われたもので、ボディに書かれたコールサインは8J3ITUとなっていた。

photo

JARLから貸与された電測車。

photo

電測車でのアンテナ設置の様子。

会議が始まると、京都国際会館内に移動しない局を開局し、来場者によるゲストオペレーションにも対応した。この移動しない局は会館内にJAMSATメンバーの指導で衛星通信の設備まで構築し運用を行っている。海老原さんの担当は、日本人、外国人のゲスト運用者の管理だった。ほぼ毎日、仕事が終わってから記念局に駆けつけ、ゲストが誰もいないときは、自らも運用した。なお、8N3ITUのQSLカードの印刷はパソコンから行える様にしたが、ログは紙ログだったため、ゲストが運用した分を海老原さんらはパソコンログに入力する作業も行った。電子ログのメンテと実際のQSLカードの印刷はJF3LGC馬淵さんが担当した。

photo

8N3ITUのオペレーションデスクにて。

[米国の無線免許に挑戦]

その頃海老原さんは、リタイア後に多くの海外エンティティから運用することを考えていた。海外から運用するには、原則としてその国のライセンスが必要だが、日本と相互運用協定を締結している国であれば、日本の免許を所持していることで、試験を受けることなく申請のみでライセンスが得られる。しかし、日本と相互運用協定を締結している国はわずか9ヶ国(2011年現在)しかない。

一方、米国は多くの国と相互運用協定を締結していたため、米国のアマチュア無線免許があれば、その免許をベースに申請して、多くの国から運用することができる。さらに日本の免許をベースに相互運用協定を利用して海外の免許を申請する場合は英文証明を取る必要があるが、米国の免許であればコピーを提出するだけで済む。その他、海老原さんは米国には頻繁に出かけていたため、米国の免許があれば、別途申請することなく、ハンディ機を持って行ってそのまま運用することができる。このような理由で、海老原さんは、米国のアマチュア無線免許を取得することを計画した。

当時の米国のアマチュア無線免許は5つのクラスがあり、日本のようにいきなり最上級を受験することはできないようになっており、一番下位のクラスから順番に取得していく必要があった。ただし、1日で5つのクラスの試験全部に合格することも不可能ではなかったが、至難の業とされていた。

海老原さんは、一気に多くのクラスにチャレンジするのではなく、自信の持てる範囲のクラスに挑戦することにし、まずは問題集を購入して試験勉強を開始した。試験は当然英語であったが、海老原さんにとっては大きな問題ではなかった。それより、クエスチョンプールの「問題数の多さ」が問題であった。勉強の成果はインターネットで公開されている模擬試験を受けてチェックしたという。

[アマチュアエクストラ級を取得]

ある程度メドが立ったところで海老原さんは、試験に挑んだ。米国のアマチュア無線の試験は20年以上前から、国の組織であるFCCによる直轄試験から、ボランティア試験官による試験に切り替わっていた。日本に在住する日本人にもボランティア試験官がいるため、現在でも年に何回かは日本国内でも試験が実施されている。

海老原さんは、1995年7月に京都で行われた試験を受験し、下から3つのクラス(Novice級、Technician級、General級)に合格して、KC7MSDのコールが割り当てられた。さらに1996年3月には名古屋で受験し、Advanced級に合格し、KJ7TNが割り当てられた。5つのクラスの中でAdvanced級のクエスチョンプールの問題数がAmateur Extra級よりも多く一番難しかったという。そして同年7月に再び名古屋で受験し、最上級であるAmateur Extra級に合格して、AB7ROが割り当てられた。

当時はまだ20WPM(1分間100文字相当)のコードテスト(モールス符号による電気通信術で受信のみ)が課せられたた。普段からCWを運用している海老原さんにとってはモールス符号を受信すること自体は何ら障害もなかったが、ひとつ大きな問題があった。1994年1月に発症した脳梗塞の後遺症で細かい文字が書き辛くなっていたことだった。試験に先立ってまずはこの症状を克服する必要があった。

そのため、毎日20WPMの速度の受信練習で早く書き取る練習を繰り返して行った。この練習(リハビリ)により相当改善されたが、受験当日は念のために、主治医から手の震えを抑える薬を処方してもらったという。また、受信文中に再々出てくる出現率の高い単語、例えば「ANTENNA」、「ELEMENT」、「HOUSE」、「TRANSMITTER」、「QUAD」、「YAGI」などの様な単語のほか、アメリカ合衆国50州のつづりは、そらで書き取れる様に丸暗記をしたという。

Amateur Extra級取得後は、海老原さんは有料で希望のコールサインに変更できるバニティーコールサイン制度により、AB7ROをN3JJに変更した。N3JJ取得後に行った海外からの運用に関する免許はすべて、N3JJをベースに申請したものだという。ちなみに、2011年現在、米国のアマチュア無線の試験は、Technician級、General級、Amateur Extra級の3クラスになっており、コードテストは全クラスから廃止されている。

photo

N3JJのライセンス。(※クリックすると画像が拡大します。)