[パケットクラスターノード]

1997年5月の京都クラブ総会でJN3RBE中山さんから「京都クラブでもパケットクラスターのノードを立ち上げてはどうでしょうか」との提案があり、中山さん、海老原さん、JF3LGC馬淵さんの3人でプロジェクトチームを編成し、検討することになった。その直前の1997年3月23日に開催されたパケットミーティングでは、ロシア人で京都大学に留学していたUA3ATSオレグさんによるパケットクラスターシステムの説明も受けており、期待が高まっている時期であった。

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パケットクラスターの仕組みを説明中のUA3ATSオレグさん。

オレグさんは、その後京都クラブに入会し、技術的なアドバイスを行ってくれた。ノード局を設置する場所は京都府南部の向日市内と決まり、翌6月にはすでにJR3VUのレピーター用に建柱していたパンザマストを利用してアンテナを設置した。設置した局には京都クラブで持っていた社団局の1つ(JA3YTZ)を使い、リンク先として、高野山(JK3YGW)から1200MHzで受け、それを滋賀県の草津(JH3YIH)に同じく1200MHzで飛ばしたため、1200MHzのビームアンテナ2基を用意した。その他に、ユーザーコネクト用のグラウンドプレーンを2系統設置した。

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向日市に建てられたJA3YTZのパケットクラスター用アンテナ群。

ノード局が稼働すると、京都在住の多くのDX’erがコネクトし、それまで430MHzのFM音声で流していたDX局の入感情報は、パケットクラスター経由でも交換するようになった。それに加え、関西一円のリンク先から流れてくる入感情報を活用することにより、効率的なDXハンティングが可能になった。この様にDX局の入感情報をパケットクラスター経由で交換する動きは、この当時全国各地で起こった。また数年後には、全国各地のノード局がリンクするようになり、DXハンティングの楽しみ方が大きく変わっていった。

[WA7LACを再訪]

海老原さんは、1993年に出張の機会を利用して、初めてWA7LAC Tokuさんを訪ね、その後何度か訪問しているが、1996年9月に訪問したときには、3日ほど泊めてもらった。その時は、ワシントン州タコマで開催の農業祭「The PUYALLUP Fair」に出展していたRadio Club of TACOMA(W7DK)のブースを訪問した。また、同じ日にマコード空軍基地で開催されていた航空ショーも見学した。

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海老原さんとJA3AJ小川さん。W7DKのブースにて。

さらに1997年9月に訪問した際には、海老原さんが取得した米国のコールサインN3JJ/7で、Tokuさんのシャックから、JARLが主催するオールアジアDXコンテストの電話部門に参加し、14MHzシングルバンド部門で、7エリア1位に入賞している。訪問先のTokuさんであるが、Amateur Extra級を取得して、現在はAD7JAで運用している。

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N3JJ/7で受賞したオールアジアDXコンテストの賞状。

[マーシャル諸島]

1996年6月頃、翌年の「京都クラブ創立50周年」の記念イベントを考えている時、DXバケーションをやろうではないか、という提案があった。そして、この行事の担当者は、英語に堪能なJF3PLF杉浦さんにお願いすることとなり、海老原さんは広報を引き受けた。同年10月のミーティングで東キリバス(T32)と北マリアナ諸島(KH0)が候補に残ったが、渡航手段等を調査していく中で東キリバスへの定期便が欠航中であることが判明した。

しかし、最後に残った北マリアナ諸島では、レア度がもうひとつなので、他に良いところは無いかと、南太平洋のエンティティを再度調査した。その時、JA3JA早崎さんがCQ誌に掲載した記事「マーシャル諸島(V7)からの運用」が目にとまり、海老原さんは以前から親交のあった早崎さんあてに、さっそく問い合わせの手紙を出した。早崎さんは、パンフレットなどの資料や現地事情を提供してくれ、親切にも現地の常駐局で弁護士のV73EHミルトンさんまで紹介してくれた。

特にマーシャル諸島では、高級ホテルではアンテナの設置許可が下りないという情報と、実際に早崎さんが運用したホテルの紹介や、アマチュア無線の免許取得に関する情報の提供はありがたかった。V7であればレア度も問題ないため、創立50周年のDXバケーションの行き先は最終的にマーシャル諸島と決定し、海老原さんはさっそくV73EHミルトンさんに、現地テレコムとの根回しをお願いした。

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海老原さんらが宿泊したRoyal Garden Hotel。

[免許申請]

ミルトンさんからのアドバイスどおり、申請料5米ドルを添えて免許申請書を現地のテレコムに発送したところ、根回しの甲斐もあってコールサインが記された領収書がFAXで送られてきた。発給されたコールサインは、個人コールとして、V73AR(JA3ART)、V73NH(JH3QNH山下さん)、V73MM(JA3AJ小川さん)、V73TX(JH3TXR山本さん)。その他に京都クラブのPRも兼ね、クラブコールとしてV73YAQ(JA3YAQ)も取得しておいた。なお、免許の原本の郵送は行ってくれず、現地テレコムへ直接出向いて受け取る必要があった。

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海老原さんが運用したV73ARのQSLカード。

コールサインが決定したため、広報担当の海老原さんは、ファイブナイン誌、CQ誌などのアマチュア無線雑誌や、各DXニュースにインフォメーションを流した。ニュースがオープンになるとすぐに、「V7までいくのなら、途中のV6(ミクロネシア連邦)の**島からも運用して欲しい」、といったリクエストが寄せられたが、グアム島からマーシャル諸島までの航空路線料金は高額で、さらに週2便のフライトしかなく予約が取りづらいので丁重にお断りした。

[マーシャル諸島への航空路]

このグアム島からマーシャル諸島への航空路は、コンチネンタルミクロネシア航空(現在のコンチネンタル航空)の定期便を使う事になる。この定期便は、グアム→トラック→ポンペイ→コスラエ→クェゼリン→マジュロ→(ジョンストン)→ハワイのコースを就航しているアイランドホッピング便と呼ばれている。機材はB727というボーイング社の古い機体で定員も少ないが、「この便に搭乗して驚いたのは、満席でも現地の人が搭乗してきたことです。当然座席はありませんが、離陸時には、通路の床に座ってシートの足を持って体を固定していました」と、初めて見る光景に大変驚いたことを海老原さん話す。

グアムを飛び立ってマジュロまでは、途中4度も着陸、離陸を繰り返し、クェゼリンでは給油までしたので8時間の長いフライトだった。また、トラック島への着陸時はすごいスコールで、逆噴射とメインギアのブレーキングで、かなりのショックがあった。機体は海まで数十米という距離で停止はしたが、タキシングへの進入路を超えて停止したため自力ではバックできず、牽引車がやってきた。「あれは絶対に着陸ミスだと思いました」と、海老原さんは当時を思い出して話す。

グアムから8時間かけてマジュロ空港に到着したものの、V73NH(JH3QNH山下さん)のスーツケースだけが、いくら待っても出てこない。到着カウンターに行くと「多分、降ろし忘れでハワイまで行ってしまった様である。2日後まで便がない」と言われた。そのスーツケースには電源1台が入っており、結局、荷物が到着するまでの3日間は1セットの無線機での運用を余儀なくされた。帰国後、関西空港にあるコンチネンタル航空事務所で補償金の手続きを行ったところ、遅延日数1日につき、わずか20ドルの補償であった。

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マジュロ空港のロビー。空調の効いた数少ない施設のため、現地の人が集まる。