[ベトナム]

1998年7月、JA3UB三好さんから「8月にベトナムに行きませんか」とのEメールが届いた。大学職員の海老原さんにとって、8月であれば上手く調整をすることで1ヶ月間の連続休暇が取得できることもあり、詳細の日程を確認しないまま、即座に「参加します」と返事をした。出発まであまり日にちが無かったが、以後、日程調整から無線免許の取得手続き、ビザの取得手続きなどは、ベトナムへの訪問が今回で9回目になる三好さんにすべて一任した。

無線免許に関しては、海老原さんの場合、米国のAmateur Extra級の免許をベースに申請することにしたため、N3JJの免許証のコピー、それにビザ取得のためのパスポートのコピーを三好さんに託した。日本の免許JA3ARTをベースに申請する場合は、総合通信局から免許の英文証明を取得する必要があるが、米国の免許であれば、それそのものが英文で記載されているため、英文証明を取得する必要がなかったからである。

ベトナムでは希望のコールサインが申請できると聞き、海老原さんは3W6ARを第一希望にした。ホーチミン市は6エリアだったため、実際には3W6までは決まっており、サフィックスの2文字ないしは3文字が希望できた。しかし、3W6ARのコールサインは、免許の申請を始め、渡越後にお世話になる現地PTT OBのアイさんに発給されていたことから、第二希望の3W6JJが海老原さんに発給された。

なお、ベトナムでの免許申請料は、申請するバンド数によって異なり、7MHz、14MHz、21MHzを希望した海老原さんの場合はちょうど100米ドルだった。実際の申請は、三好さんを通じて前述の3W6ARアイさん経由で申請し、日本を発つ前に3W6JJが発給されたが、ライセンスの書面は渡越後に現地で受け取る必要があった。

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ベトナムの切手をデザインした3W6JJのQSLカード。

[参加メンバー]

今回の訪越は三好さんが海老原さん以外にも2人に声をかけ、4人のメンバーで向かうことになった。チーム構成として、すでに3W6UBのコールを持っているJA3UB三好さん。今回はSSTVの運用を行うため、新たに3W6TVのコールも取得した。次に横浜市在住のJA2BWH杉澤さん。当時JASTA(日本アマチュアSSTV協会)の事務局長を務めるなどSSTVを極めてアクティブに運用していた。ベトナムでのコールサインは3W6BWHを取得した。

3人目は鳥取市在住のJA4HCK馬場さん。三好さんとは旧友関係のハムで、コールサインは3W6HCKを取得した。それに今回が初めての渡越になる海老原さんを加えた4名のチーム構成となった。今回の運用では、ベトナムから初めてSSTVの電波を発射して世界にサービスすることを大目標としており、SSTV関連の機材の準備とメインオペレーターは杉澤さんが担うことに決まった。

[出発]

出国は8月22日、帰国は26日の4泊5日と決まったが、出発当日まで、4名全員が集まってのミーティングはなく、すべてEメールで連絡を取り合った。持って行く機材の分担などもすべてEメールで打ち合わせを行った。そして出発当日の8月22日、午前9時に関西空港の出発ロビーで初めて全員が顔を合わせた。

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出発直前、関西空港ラウンジでのスナップ。左からJA2BWH杉澤さん、JA3UB三好さん、JA4HCK馬場さん。(海老原さんが撮影)

なお、杉澤さんだけは羽田空港から搭乗し関西空港で乗り換えのため、荷物は先に預けてあり、体だけでやってきた。杉澤さん以外の3人で、三好さんが持参したHFトランシーバー2台とリニアアンプ2台を各人のスーツケースに、重量が均等になるように詰め替えを行った。その後荷物を預け、一行は搭乗ゲートに向かったが、三好さんが機内持ち込みにしてハンドキャリーで運ぶつもりだったリニアアンプを入れた小型スーツケースが機内持ち込みを拒否された。

スーツケースのサイズは問題なかったが重量が重すぎるからという理由だった。それは客室乗務員が荷物を荷棚に上げる際などに、腰を痛めることなどを防ぐための重量制限だったが、そこは三好さんの弁舌でクリアし、機内持ち込みが認められた。万一これが認められなかったら、再度、階下のチェックインカウンターまで戻って荷物を預けなければならず、場合によっては追加料金を取られる可能性もあっただけに危ういところだった。

11時30分、ベトナム航空VN941便のB767機は定刻どおり関西空港を離陸し、4時間45分のフライトで予定どおりベトナムのタン・ソン・ニュット空港に到着した。その際、横風の中を着陸した模様で、着陸の瞬間、機体の方向がかなりよれ、「一瞬ドキッとしました」と海老原さんは話す。タキシング中には、滑走路沿いにカマボコ形をした軍用ヘリの格納庫が多数、目に入ったという。

[入国審査]

タン・ソン・ニュット空港には、ボーディング・ブリッジがなく、到着後はバスに5分程乗車して到着ロビーまで移動し、いよいよ入国審査となった。しかし、到着ロビーとは名ばかりで、照明も暗く冷房も効いていない。「警備している、兵士とも思える空港職員も大変いかめしい感じで社会主義国の雰囲気を感じました」と海老原さんは話す。

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到着ロビーのあるターミナルビルまではバスで移動。

入国審査のゲートは3ヶ所あったが、なかなか進まなかった。それでも、僧侶や、何かを警備の空港職員に手渡した人は列の一番前に案内されており、何か優先順位がある様な雰囲気だった。30分程かかって入国審査が済み、やっとスーツケースをピックアップし、いよいよ税関検査となった。後ろから、列の前の人の検査を見ているとかなり厳しそうな感じがあり、プロのカメラマンらしき人は、カメラボディからレンズを取り外してチェックされたり、実際にシャッターを押させられたりしていた。

[税関検査]

いよいよ、海老原さんの順番となり、指示に従ってスーツケースをレントゲン検査機に通した。すると「もう一度通せ」との指示を受けた。HFトランシーバーが引っ掛かったに違いないと思い、指示に従ってスーツケースを開けIC-725を取り出した。すると「まだあるだろう」と言われ、アンテナやバッテリーケースを取り外して本体だけの状態にしていたハンディ機のIC-3Nまで取り出すことになった。

これらの作業は、検査台がなかったためコンクリートの床の上で行うことになったが、冷房がなく蒸し暑い中での中腰姿勢だったので、汗だくで参ってしまった。また検査官とのやり取りは英語ではあったが、ベトナム語なまりがひどく聞き取るのに苦労した。さらに、書き直した税関申請書が行方不明になったり、海老原さんのパスポートまでも一時行方不明になったりして、ボンド(保税倉庫留置)の書類を作り、すべての手続きが完了するまで2時間もかかった。

ようやく税関検査のカウンターから外へ出た際、ガラス越しに馬場さんがまだカウンターで職員とやりとりしているのが見えた。結局、全員のスーツケースに入っていた無線機類は全部ボンドされてしまった。検査官の説明では、「運用許可証(無線局免許)を持参すれば明日にでも引き渡す」との事であったが、この「明日にでも引き渡す」がまったくの空言であることが、後で分かる。

空港の外にはPTTから3W6ARアイさんたち数人が迎えに来てくれていた。まずは簡単な挨拶を行った後、一緒にマイクロバスに乗車して一旦ホテルに向かいチェックインを行った後、挨拶と免許受領のためPTTに向かった。なお、ベトナムのPTTは通信関係の政府機関と教育機関を兼ねた組織である。

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ホーチミン市内に残るベトナム戦争の遺物。