[京都で生まれる]

1940年(昭和15年)9月、京都市北区にて、父親の猪一郎さんが悉皆業(しっかいぎょう)を営む海老原家の長男として海老原さんは生まれた。悉皆業とは京都独特の業種で、和装着物の「しみ抜き」、「洗張り」、「丸洗い」、「ゆのし」など総合メンテナンスを行う業種のことで、猪一郎さんは「菱猪(ひしい)」という屋号で宮内庁(京都御所)御用達として手広く商いをしていた。

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出生当時の海老原さん。

翌年、日本は太平洋戦争に突入する。太平洋戦争中、京都は空襲を受けていない都市という伝説があるが、実際は20回以上の空襲を受けていて、死者302人、負傷者561人の被害が出ている。中でも比較的被害が大きかったのは、1945年1月16日の東山区馬町(清水寺の近く)への東山空襲で死者41人、負傷者56人。また同年6月26日の上京区出水への西陣空襲では死者50人、負傷者66人の被害が出ている。

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菱猪の作業場の様子。

「西陣空襲は私の家から3km位しか離れておらず、爆撃音と振動がすごくて、まだ布団の中にいた私を母親が抱きしめたことを今でもはっきりと憶えています」と海老原さんは当時を思い出す。また、その空襲で爆弾の破片が海老原さんの自宅近くまで飛散したことも憶えている。それ以外でも空襲警報のサイレンが鳴り、自宅の裏庭にあった防空壕に避難したことや、B-29爆撃機が上空を悠々と飛行している光景も何故かハッキリと記憶にあるという。「太平洋戦争の記憶がある年代は私の昭和15年生まれが最後ではないかと思います」と話す。

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3歳頃の海老原さん。自宅にて。

海老原さんが4歳の時に終戦。戦後の1947年4月、海老原さんは京都学芸大学附属小学校(現在の国立京都教育大学付属京都小学校)に入学する。当時は、家業が軌道に乗って比較的裕福であったことと、父親が教育熱心であったことから、最寄りの公立小学校ではなく、電車通学になることを承知の上で、父親がこの小学校を選んだのであった。この小学校の先輩には、茶道裏千家大宗匠・千玄室(現在は同小学校の同窓会会長)さんや、堀場製作所会長の堀場雅夫さんなどがいる。

[ラジオに興味を持つ]

小学校高学年になると、ラジオに興味を持ち始める。近くの模型店で鉱石ラジオのキットを購入し組み立ててみた。「イヤホンからNHK京都第一放送と第二放送、それにラジオ京都が受信できた時の感激は今でも忘れられません」と海老原さんは話す。ちょうどその頃、北区の家のすぐ近くにラジオ京都(現KBS京都)の送信所ができ、鉱石ラジオでも大変良好に入感した。これがきっかけとなり、海老原さんのラジオ人生がスタートした。

1953年4月、海老原さんは、父親の強い勧めもあり、ヴィアトール学園洛星中学校に入学する。この学校はカトリック系ミッションスクールの進学校で、自宅からは徒歩で通える距離にあった。在学中の授業参観には必ず父親がやってきた。母親が参観に来る生徒がほとんどであった中、「自分も母親に来て欲しかったと、思ったものです」と海老原さんは当時を思い出す。いわゆる教育パパであった父親は、海老原さんが中学校に入学すると家庭教師をつけた。京都にまだ学習塾が無い時代のことである。

洛星中学校では、俳優の津川雅彦さんが1級上に在学しており、海老原さんと津川さんの家は距離にして200mくらいの近所だったため、一緒に徒歩で通学したことを憶えている。ただし、津川さんは映画の仕事が忙しくなり、学校にあまり出てこられなくなってしまい、授業が厳しい進学校であるが故、3年の時に転校して行った。その他、当時近所には仮住まいではあるが作家の川端康成さんや、映画監督の大島渚さんと女優の小山明子さんご夫妻、女優の山田五十鈴さんなどが住んでいた。

中学生になった海老原さんは、ラジオ京都の番組「DXタイム」を毎週欠かさず聞くようになる。これは、斉藤醇爾(JA3CKI、後にJA7SSB)さんがパーソナリティを務める、松下電器(現在のパナソニック)がスポンサーの番組で、当時はまだアマチュア無線が再開されたばかりということもあり、アマチュア無線だけでなくBCLの話題も多く取り扱っていた。具体的にはBBCが何月何日の何時に何メガで入感したといった読者からのレポートや、斎藤さん本人のワッチレポートを流していた。

[小川先生と出会う]

洛星中学校の屋上にはダイポールアンテナが設置してあり、入学後のある日、海老原さんは、何のアンテナだろうと不思議に思って、同軸ケーブルをたぐっていったところ、建物の塔屋に小窓から引き込まれていた。小窓から中を覗いてみたところ、格好のいい受信機が置かれていた。担当の先生に尋ねると、その受信機はハリクラフター社製の短波受信機RME45で、受信機の横にはセットになったプリセレクターも置かれていた。

その先生こそが、理科の担任JA3AJ小川さんで、当時すでに開局していた数少ないアマチュア無線家の一人であった。海老原さんは、迷わず「一度聞かせて下さい」と申し出た。RME45は自宅の5球スーパー+コンバーターで聞いた短波放送とは聞こえ方が全く異なり、海老原さんは大変感動したことを憶えている。ヴィアトール学園はカナダに本部があるカトリック系ミッションスクールで、外国人の神父さんや教諭も多く、ラジオ好きの神父さんの一人が本国から持ち込んだ受信機だった。

[実況中継に立ち会う]

その頃、毎週欠かさず聞いていた「DXタイム」だが、ある時、パーソナリティの斎藤さんの提案で、アマチュア無線の交信とはどんなものか実演しようと言うことになり、小川さんが、職場である洛星中学校からコリンズのS-ラインのセットを使って実際のQSOを行い、その様子を実況したことがあった。海老原さんは、その中学校の生徒だったこともあり、その時ばかりは、自宅で番組を聞いていたのではなく、夜遅かったにも関わらず中継現場で様子を見ていた。「DXタイム」には、後に交流が始まるJA3DY橋本さんも出演していたことがあった。

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2002年のスナップ。左からJA7SSB斎藤さん、海老原さん、JA3AJ小川さん、JA3JJ山村さん

また、海老原さんは「DXタイム」で紹介のあったナショナル・パーツ・サークル・ファン(NPC)という会に入会した。会費は無料で、入会すると会員バッジがもらえ、定期的に会報(製作記事などが掲載されたラジオ少年向けの情報誌)やパーツのカタログを送ってきた。松下電器では通信型受信機を発売しており、部品の販売と合わせて受信機の宣伝効果もねらった組織であったと思われる。