[JARL京都クラブ]

海老原さんが中学生の頃、中京区丸太町にあった日本赤十字社京都府支部の木造2階建て社屋の2階会議室で、毎月1回、当時すでに京都近郊でアマチュア無線局を開局していた人らによって結成されたJARL京都クラブのミーティングが開催されていた。メンバーは、JA3AB藤本さん、JA3AD深田さん、JA3AG広田さん、JA3AJ小川さんらであった。海老原さんは小川さんに紹介され、ミーティングに顔を出していた。

いつもこのミーティングの最後に、ジャンク交換会と称するフリーマーケットがあり、海老原さんは、そこでパーツを入手するのも楽しみのひとつとして、ミーティングに参加していた。日本赤十字社はアマチュア無線に対して非常に協力的で、無償で会場を提供してくれただけでなく、さらに会議室の中に2畳分くらいの小さい区画を作ってくれ、JARL京都クラブでは、JARL本部から支給されたコリンズ社製のTCSという3.5MHzと7MHz用の送信機と受信機を置いていた。そのセットで海老原さんはアマチュアバンドをワッチさせてもらった。もちろん海老原さんも開局後はJARL京都クラブの正式メンバーとなった。

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TCS受信機(上)と、TCS送信機(下)。現在は海老原さんが保管を任されている。

[ラジオの教材]

1953年、中学1年の時、海老原さんは初めてラジオ雑誌を買った。科学社発行の「僕のラジオ研究」という雑誌だった。当時は、すでにCQ誌が存在したが、海老原さんは当時CQ誌の存在を知らず、CQ誌を初めて買ったのは、中学を卒業する少し前の1956年2月号だった。

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初めて買ったCQ誌。現在も手元に残してある。

当時のラジオ雑誌には、たいがい受信機の実体配線図が載っていたが、送信機の実体配線図を載せている雑誌もあった。さらに集める部品も写真入りで丁寧に書かれていたため、海老原さんは、まだ回路図が良く理解できなかったが、送信機づくりにも挑戦してみた。発振はECO回路で、ファイナルは42だったという。ちゃんと電波が出ることは、自分のラジオで聞いて確認できたが、免許がないためアンテナを接続する訳にもいかず、動作確認までで終わっている。

一方、学校では小川先生から米国のアマチュア無線連盟・ARRLの月刊機関誌であるQST誌を読むことを勧められた。当時、学校の図書館にはなんとQST誌が毎号置いてあった。海老原さんは、いつもQST誌が到着するのを待ちかねて、図書館で購読した。「おそらく、小川先生と、無線の好きな神父さんが、学校に頼んで購入していたのだと思います」と話す。

QST誌は英語の書籍であったが、海老原さんに英語アレルギーは全然無かった。というのも、通っていた洛星中学校は、ミッション系の学校だったため、英語教育がものすごく厳しく、中学1年から英会話の授業があった。英語教師の半分はネイティブで、授業中は日本語禁止というものだった。入学当初、ABCも知らないのに、授業が始まると教師から「Stand up(起立)、Bow(礼)、Sit down(着席)」と言われ、驚いたことを憶えている。そんな環境だったため、海老原さんはQST誌を読むのに違和感はなかった。

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中学生時代の海老原さん(左)。右は後にキングレコードのプロデューサーとして、やしきたかじんさんらを手がけたJJ3AHM竹中建三さん。

[リンガフォン]

当時、今のような英語教材は氾濫しておらず、個人で入手可能な英語の教材は実質的にリンガフォンしか無かった。海老原さんは、英語教員に勧められて中学2年の頃にこのリンガフォンを購入した。当時のリンガフォンは、レザー張りで二つ折れになる立派な収納ケースに、教材と10枚のSPレコード盤が付いており、これを使って海老原さんは自宅でも英会話を勉強した。

後年の就職後、海老原さんは英語好きだった事もあって視聴覚教室に配属になった。ある日、視聴覚教室にリンガフォンのセールスマンがやって来た際、余談としてSPレコード盤タイプの初期のリンガフォンを持っているという話をしたところ、「そのSPレコード盤のリンガフォンをぜひ売って欲しい、それは値打ちものでひょっとしたら会社にも無いかも知れないからだ」と言う。その日の帰宅後、海老原さんは、自宅を探したがリンガフォンを見つけることはできなかった。「おそらく引っ越しの時に処分してしまったのだと思います」と話す。

[突撃訪問]

中学2年なると、自宅から300mぐらいの近所で開局していたJA3DY橋本さんのところへ、アポ無し飛び込みでお邪魔した。橋本さんは詰襟の学生服を着た中学生の突然の訪問に驚いたが、快く送信機や受信機を見せてくれた。その後、海老原さんはちょくちょく橋本さんのシャックに遊びに行くようになり、その頃から本格的にSWL活動を開始した。受信機は旧日本陸軍が使っていた地二号を橋本さんから借り受け、自宅にダイポールアンテナを設置して、主に14MHzCWを受信した。橋本さんはその他にも受信機を何台か持っており、メインには地二号の上位機種である地一号とハリクラフター社製のSX-28を使っていた。

海老原さんが、14MHzCWをワッチしたのは理由があり、受信機を貸してくれた橋本さんから、DXCCのウォンテッドリストを渡され、「ここに載っているところが聞こえたら教えて欲しい」と言われ、それに応える必要があったからである。橋本さんは100%CWによる運用を行っていたことから、海老原さんもCWばかりワッチした。「モールス符号は聞いているうちに自然に覚えてしまい、受信に関して、何の苦にもなりませんでした」と話す。

実際に、海老原さんは、橋本さんの未交信エンティティをいくつか見つけ、自転車に飛び乗って橋本さんの自宅まで伝えに行ったことがある。当時、海老原家の仕事場(作業場)にはもちろん電話があったが、自宅とは少し離れていて、自宅にはまだ電話が無かったため、連絡の手段として自転車を使わざるを得なかった。また、橋本さんのシャックに到着しても、当時の装置は真空管だったため、リニアアンプや水銀整流管が暖まるまで3、4分間かかり、珍局が引っ込んでしまわないかとやきもきした。「私の情報で、橋本さんが目の前でニューエンティティとQSOしたこともありました。あの頃は橋本さんの片腕でしたね」と海老原さんは話す。

その他も、自作のビームアンテナを上げていたJA3GM加藤さんのお宅や、コンテストにアクティブだったJA3IS藤永さんのお宅にも突撃訪問した。加藤さんがビームアンテナをロープで回転させていたことをはっきりと憶えているという。また、藤永さんはJA3AB藤本さんと並んでいつもコンテストで上位に入賞する実力派であった。「京都はアマチュア無線の先輩が多く、恵まれていました。どこへ行くのにも自転車で、そしてアポなし電撃訪問でした」と海老原さんは話す。

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海老原さんが訪問した当時のJA3GM加藤さんのシャック。

中学校時代の部活動は、無線部と写真部に入部した。無線部と言ってもクラブ局がある訳でも無し、海老原さんを含めて3人の部員は誰もアマチュア無線のライセンスを持っておらず、無線従事者国家試験の受験に向けた受験準備や、ラジオづくりに関する情報交換を行っていた。ラジオの部品に関しては、京都の電気街である寺町に部品屋が3軒ほど有り、新品の部品であれば、京都で入手できたという。もちろん、JARL京都クラブでのジャンク交換会も大いに活用した。