[洛星高等学校に入学]

海老原さんは、1956年3月に洛星中学校を卒業し、翌4月に洛星高等学校に入学する。ヴィアトール学園は中高一貫教育だったため、高校受験こそなかったものの授業は厳かった。同窓生には現在大原美術館オーナーの大原謙一郎さんがいるが、海老原さんと大原さんとは、小学校、中学校、高校の12年間同じ学校だった。今でも毎年開催されている小学校や中・高等学校の同窓会で顔を合わせているという。

海老原さんは高校入学後も再び無線部と写真部に入部した。写真の方は、父親に写真の趣味があったため、自宅にドイツ製のバルダックス、レチナやローライフレックスなどの高級な写真機がたくさんあった。また押し入れを改造して父親が作った暗室もあり、DPEは自分でやったという。高校時代には、毎年高島屋で開催された私立学校展(京都の私立学校の展示会)の写真の部でよく金賞をもらった経験がある。なお、写真の趣味は今でも続けている。

高校に入学すると、月に一回、学内の英語弁論大会があり、生徒が順番に講堂の段上でスピーチを行わなければならなかった。スピーチの時間は5分程度で、一回で数人がスピーチを行ったため、結構早いペースで順番が回ってきたという。海老原さんの英語力はますます訓練されていった。そのような状況の中、海老原さんが高校1年の時に父親が、52歳の若さで、病気のため他界する。父親の仕事を継ぐ親族がいなかったため、海老原家は悉皆業を廃業することになった。

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高校生時代の海老原さん(右から3人目)。生徒会役員の記念撮影。

[無線部での活動]

無線部の顧問は中学と同じで小川先生だった。「1日も早くライセンスを取りたいと思ったのですが、なにせ当時は第1級と第2級しかなく、第2級の試験問題を見てこれは無理だと感じました」と海老原さんは当時を思い出す。その頃の試験問題は、現在の様な択一方式ではなく、記述式だったため、まずは難しい漢字から覚えないといけなかった。たとえば、コイルは線輪、低周波チョークは塞流線輪(そくりゅうせんりん)、コンデンサは蓄電器、バリコンは可変蓄電器と書かれていた。

週2回、部員4人が集まり、小川先生に例題を出してもらって勉強した。また当時はアマチュア無線技士用の受験参考書がなかった。そのため海老原さんは第2級の受験とはいえども無線従事者教育協会発行の「無線実験及び測定」というプロの無線通信士用の参考書を入手して、無線工学の勉強を行った。法規については黒表紙の分厚い加除式の電波法令集を読んで覚えた。

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無線従事者教育協会発行の「無線実験及び測定」。

高校1年の終わり頃、1957年2月に海老原さんはJARLに入会する。まだアマチュア局を開局していなかったため、准員としての入会となり、SWLナンバー・JA3-1273をもらって本格的にSWL活動を開始する。JARL会員となったことで、ビューロー経由で受信レポート(SWLカード)が送れるようになり、その後、免許を取得してJA3ARTを開局するまでに、50エンティティ前後のQSLカードを集めた。

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SWL時代の海老原さんのシャック。

[2アマを取得]

高校3年となり、海老原さんは1957年5月期の第2級アマチュア無線技士の国家試験を受験したが、勉強不足で合格できなかった。しかし半年後の1958年1月期に再チャレンジし、ついに合格通知を受け取った。その頃までは北区の自宅に住んでいたが、同1月に、現在住んでいる国立京都国際会議場近くにある母親の実家に引っ越す。また高校3年の1月なので、すぐに大学受験が始まり、無線従事者免許証は手にしたものの、忙しくてすぐに開局申請をすることができなかった。当時は国産の既製品のアマチュア無線機は皆無に近く、基本的に自分で作るしかなく、申請前には製作予定の送信機の検討をしないといけなかったからだ。

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国家試験の受験票と合格通知。

大学受験については、父親の他界によって経済的に厳しい状況であり、海老原さんは、学費を自分で稼ぎながら、勉強を続けるために、立命館大学の二部を受験した。大学受験には問題なく合格したが、次はすぐに就職先を探さなければいけなかった。立命館大学の合格通知を受け取った直後、海老原さんは立命館大学の職員採用試験があることを知る。昼間に働く職場と、夜間に通う学校が同じであれば、通勤通学のことを考えると理想的な条件である。海老原さんは、さっそく採用試験に願書を出した。

高校卒業間近の3月、立命館大学の職員採用試験会場に行ったところ、わずか2名の募集人員のところに、90名もの受験者が来ていた。その様子を見て「こらあかんわ」と感じたという。それでも海老原さんは1次の筆記試験をパスして、2次に面接に臨むことになった。その時点でまだ10名も受験者がいた。採用試験の結果はすぐに発表となり、海老原さんは、見事に45倍の難関を突破して合格した。

[立命館大学に入学/就職]

海老原さんは、1958年3月ヴィアトール学園洛星高等学校を卒業、翌4月に立命館大学に入学する。しかし入学以前にもう職員として立命館大学で働き始めていた。3ヶ月の試用期間を終了し6月には正規職員となる。「昼間の職場が夜は勉学の場となり、職場からの通学時間がゼロという好条件の元、さらに教職員とも職場仲間という関係で色々と相談もしやすく、大変楽しい大学生活が過ごせました」と海老原さんは話す。

勤務時間は朝8時半から夕方の16時半までで、授業開始が17時半からだったため、その間に学食で夕食を摂ったりした。授業は21時40分までの3講時あり、現在の2講時と比べると科目選択の枠の自由度が高かった。当時の2部には市役所職員、府庁職員などの地方公務員や、警察官、自衛官、西陣の織り屋の職人などの学生も多かった。

[開局申請を行う]

仕事と学業が一旦落ち着くと、海老原さんはアマチュア無線局の開局申請書を書き上げて、近畿電波監理局(現在の近畿総合通信局)に提出。1958年7月に予備免許が下り、いよいよリグの製作に入ることになる。当時はまだ就職したばかりで、「給料が安くて部品集めが大変でした」と話すように、月給が9000円の頃、たとえばトランスが1個800円した。シャーシーはもちろん自作で、シャーシーパンチを購入して穴をあけた。コイルも自分で巻いた。当時は測定器としてディップメーターを持っていたが、これも大枚を叩いて購入したものだった。

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海老原さんが受け取った予備免許。(※クリックすると画像が拡大します。)

勤労学生だったため、十分な時間は無かったが、製作途中の無線機は通勤の車に積んでおき、授業の2講時目が空いているときは、その時間を利用して学校でも組み立てた。送信機は、発振に6AG7、807ハイシング変調、ファイナルに807を使った。VFOも一応作ったが、落成検査の時にVFOのドリフトが原因で不合格になるのを避けるために、水晶制御の7MHzAM2波だけで開局申請していたため、最終的に水晶制御の送信機を完成させた。

送信機が完成すると海老原さんは試験電波を発射した。予備免許でコールサインJA3ARTが指定されていたため、「予備免許中」とのアナウンスは行いながら、7MHzのAMで普通に交信し、装置が正常に動作していることを確かめた。もちろん試験電波のログ(抄録)は近畿電波監理局に提出した。ただし、本免許ではないため、まだQSLカードの交換はできなかった。