[落成検査に合格]

当時は、10W局でも落成検査に合格しないと本免許がもらえない時代であった。海老原さんは、試験電波を発射して問題がなかったため、工事落成届を提出したところ、比較的早く落成検査の日が指定され、1959年1月に落成検査を受けた。送信検査の最中、ファイナルの807のプレートが真っ赤になって焦ったが、検査に来た担当官は親切な人で、一生懸命いろいろ見てくれた。結局はグリッドのバイアス電圧が低くて、プレート電流が流れすぎていたのが原因だった。しかし、電波は問題なく出たので、落成検査は合格となった。

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落成検査を受けた自作送信機。

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上記送信機用の電源部。

当時の7MHzは、すでにバンドの指定を受けることが可能であったが、海老原さんは、固定チャンネル方式の水晶2個で検査を受けたため、2波だけの免許となった。ちなみに、検査の時使った水晶には、検査合格後に検査官が2個とも判を押し、判の上からセロテープを巻いて帰っていった。理由として「水晶を持ち回りされないように」との説明があったという。

[運用を開始]

落成検査に合格すると、海老原さんはその日のうちにさっそくファーストQSOを行った。相手局は、近所に住んでいたJA3YT山室さんだった。山室さんとは予備免許の時から試験電波で何度か交信しており、この日のQSOもスケジュールであった。山室さんとの交信が終わると、全国から次々に声がかかり、この日だけで2、3、5、6、0エリアの合計7局とのQSOを達成している。その時使ったアンテナは30m長のロングワイヤーだった。

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JA3ARTの業務日誌1ページ目。(※クリックすると画像が拡大します。)

この後は毎日のように7MHzAMで運用した。平日は学校の授業が終わるのが21時40分なので、家に着くのは22時過ぎだったが、開局当初は、夜中の1時や2時まで運用した。当時はレポート交換だけのQSOはあまり行われておらず、相手局とは、使っているリグやアンテナの紹介まで行ったため、1局とQSOするのに概ね10分前後を要した。

また、当時は、海老原さんのように固定チャンネル方式の局も多かったため、自分がCQを出したら、受信機のダイヤルをぐるぐる回して、自局を呼んでいる局がいないかバンド中を探す必要があった。逆に、CQを出している局を呼ぶ際は、自局が持っている水晶の周波数以外の場合、相手局が見つけてくれるまで、ずっと呼び続ける必要があり、交信の効率は今と比べると非常に悪かった。

[新2級への移行試験]

海老原さんは1958年1月期の国家試験で(旧)第2級アマチュア無線技士の無線従事者免許を取得したが、同年11月、電波法が改正され、電話級、電信級の両アマチュア無線技士が新設されるとともに、(新)第2級アマチュア無線技士にはモールス符号による電気通信術試験が課せられた。そのため、電気通信術試験なしで取得できた旧第2級は、電話級アマチュア無線技士相当に格下げになったが、5年間の移行期間が設定され、その間に電気通信術の試験(移行試験)に合格することで、新2級になることができた。

その当時、海老原さんはちょうど予備免許を受けて、送信機の製作中であった。そのためまずは開局を優先したが、開局から9ヶ月が経過した1959年10月、新2級への移行試験を受験し合格した。試験科目は電気通信術のみで、1分間45字のスピードによる欧文モールスの送信、受信であった。その時の試験官は、顔見知りのJA3AA島さんだったことを憶えている。

電気通信術の試験は、受信は受験者が一斉に受けるが、送信は一人ずつ電鍵を操作して受験する。いよいよ海老原さんの送信試験の順番が迫ってきたとき、前の受験者が自分の名前を打たされていることが分かった。試験の本文は試験用紙に書かれているが、自分の名前のアルファベットはどこにも書かれていない。万一間違えて、減点を食らうと大変なため、海老原さんは、とっさに受験票に書かれている自分の名前の漢字にアルファベットでふりがなをつけ、それを見ながら符号を打ちその場をしのいだ。受信の方は中学生時代からCWを聞いていたので全く問題なく、結果は、1発合格だった。

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ふりがなをつけた移行試験の受験票。(※クリックすると画像が拡大します。)

[CWによるDXを始める]

新2級への移行試験に合格した後、CWが許可されたため、海老原さんはCWによる運用を始める。その頃使っていた送信機には、将来のことを考えて、カソードキーイングによってCWも運用できるように作ってあった。「カソードキーイングなのでキークリックが出てしまい、フィルターで対策しました」と海老原さんは話す。開局後はAMでの国内QSOが主体だったが、CWを始めると、交信相手は圧倒的に海外局が多くなっていった。

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当時のシャック。

さらに、JA3DY橋本さんの影響を受けて、海老原さんもDXCCに興味を持ち、未交信のエンティティを見つけては攻略していく。初めてのエンティティとの交信を達成できれば、QSLカードは早く欲しい。QSLビューロー経由で交換した場合、2、3年かかってしまうため、ダイレクトで交換したい。しかし、当時はローカル局もコールブックは持っていなかった。そこで、海老原さんは、珍局のQSLカードをダイレクトで回収するために、わざわざ米国の局を捕まえ、「だれだれのQTHを教えて欲しい」と頼み、1文字ずつ住所を送ってもらったことも良くあったという。もちろん電信での話である。「今から思えば、平文でバグキーを使ってよくあれだけの情報を収集できたものです。今だったらとてもじゃないが、あの度胸はありません」と、海老原さんは話す。

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海老原さんが当時使っていた周測計。三田無線研究所製。