[60年安保]

1958年、立命館大学に職員として就職すると当時に同大学理工学部電気工学科の2部に入学した海老原さんは、仕事と両立して4年間の学生生活を送った。その間、大学1年の時にJA3ARTを開局し、仕事と学業以外の少ない時間を有効利用して、アマチュア無線を楽しんでいたが、海老原さんの学生時代は、ちょうど60年安保の時代でもあった。

60年安保とは、1951年にサンフランシスコ講和条約とともに結ばれた日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)の内容改訂を行い、新安保条約として締結されたものだが、この新安保条約が調印に至る過程で、条約締結に反対した学生や労働者が大規模な反対運動を展開した。当時の内閣総理大臣・岸信介が、衆議院で新条約案を強行採決したため、岸内閣退陣を要求する抗議デモが激化し、デモ運動の中で死亡者まで出ている。死亡したのは、60年安保闘争の活動家、樺美智子氏(東京大学文学部学友会副委員長)であった。当時に学生時代を過ごした者にとっては、忘れられない事件であった。

[ノンポリ]

また、全学連(全日本学生自治会総連合)の元に組織された学生達が積極的に闘争したのは、新安保条約締結反対だけでなく、当時進められていた大学改革の阻止も目的としていた。そのため、全国の主たる大学では授業のボイコットが行われた。海老原さんが学ぶ立命館大学も例外ではなかったが、海老原さんら2部の学生はノンポリ(ノンポリティック・政治的無関心)系が多かった。特に2部の学生は、昼間は働き、夜間は勉強しなければならず、学生運動に関わっている時間がなく、そのほとんどはノンポリ学生であったという。

このノンポリには、政治的無関心という意味だけでなく、過激すぎる学生運動に嫌気を差したという意味も含んでいる。「仮に、自分に学生運動に参加できる時間があったとしても、職員という身分上それはできなかったでしょうね」、「良く言えば、変化に富んだ、今の時代では経験できないであろう学生時代を過ごせました。」と海老原さんは話す。

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大学時代の海老原さん。電気工学教室前にて。

[70年安保]

ついでに書くと、10年後の1970年には、新安保条約の10年後の自動延長に反対して70年安保闘争が勃発した。東大闘争などを始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモが全国で展開された。この時は60年安保闘争より過激となり、学生が校舎を占拠する事件などが起こった。そのため、半年から1年間ぐらい授業が行えなかった大学も多くあった。「当時の東大安田講堂事件や、浅間山荘事件はテレビで実況中継までされていたので、多くの方々の記憶にあるでしょう」と話す。

当時はすでに大学を卒業し、大学職員として勤務していた海老原さんであったが、立命館大学でも校舎の2つが学生によって占拠されてしまった。海老原さんら職員は防衛に回り、教室の机は全部撤去した。机は、解体すると足の金属部分がブーメラン風になり、学生に投げられて凶器になることと、天板は暖房のために燃やされるからだった。京都では立命館大学の他、京都大学や同志社大学でも同じような状況であったという。しかし、闘争の目的が、当初の新安保条約の継続反対への運動から、過激な暴力集団と化していき、世間に受け入れられなくなり、一部を除いて自然に終息していった。

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学生運動による投石で、フロントガラスを割られた海老原さんの愛車セドリック。

[授業と仕事の直結]

大学職員としての海老原さんは、就職後、施設課に配属された。当時の立命館大学では校舎や実験室を建設するときの電気設備(高圧受電設備、電灯・動力設備、電話・インターフォンなどの弱電設備、火災報知器などの消防設備)の設計については、設計監理事務所に依頼せずに、大学の職員のみで対応していた。職員が図面を引き、積算して予算を算出、最低落札価格を決定し、業者選択、入札仕様書作り、入札、契約までを業務として行っていた。

施設課の海老原さんは、授業で習う「設計製図」が大いに役に立ったという。さらに授業で習った製図をすぐに実際の仕事で復習できたため、相乗効果として授業での製図の質も高くなっていった。また授業で習った「発送配電工学」も、変電所の設計ですぐに役に立つなど、授業内容と仕事が直結することも多かった。今でも、海老原さんが設計した電気設備や変電設備の何カ所かは、立命館大学内で稼働している。

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3回生の海老原さん。昼間の勤務時の服装でそのまま通学していた。

[卒業]

海老原さんの卒業研究のテーマは「SSBの発生装置」であった。海老原さんは学校から支給された補助金も一部充当して国際電気から発売されていたメカニカルフィルターを購入し、雑誌の記事を参考にして455kHzのSSBのジェネレーターを作った。そのジェネレーターを使って実験を行い、データを取得して卒業論文を完成させた。ジェネレーターの製作には3ヶ月くらいかかったが、送信機を作ることが目的ではなかったため、電波を出すまでには至らなかった。

海老原さんは、学生運動には加わらなかったが、無線運用はしっかり行っていた。当時、職員はキャンパスの中まで車が乗り入れられたため、1講時目が休講の時は、16時30分に仕事が終わった後、無線運用のために一旦家に帰ったこともよくあった。タイミング的にちょうどヨーロッパやアフリカがロングパスで開ける時間であった。海老原さんの自宅は、南側が開いたロケーションで、このロングパスによる伝播で多くの珍局と交信することができたという。

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学生時代の海老原さんのシャック。

「家から学校までは車で15分くらい、2講時目の始まりが19時15分だったので、19時頃まで家にいられました。夕飯を食べて無線をやり、また車で学校に戻りました」と話す。大学2年の時に新2級アマチュア無線技士への移行試験に合格した海老原さんは、CW中心の運用にシフトした。この頃使っていた機械も自作機で、バンド切り替えはプラグイン方式であった。

アンテナは14MHzと28MHz用の垂直ダイポールを使用していた。「AMは変調器の製作が大変であったことや、効率が悪く飛びが悪いことと、その他に、開局前からつきあいのある近所のJA3DY橋本さんがCWメインで運用されていたことに影響されたと思います」と話す。1962年3月、海老原さんは4年間の学生生活を終えて立命館大学を卒業する。