[21MHz5エレ]

海老原さんは、1965年頃、電柱の払い下げをもらってきて、自分で穴を掘って建てた12mの木柱に、14MHz、21MHz用2バンドキュビカルクワッドアンテナを上げてDXを楽しんでいた。このクワッドアンテナのスプレッダーには竹竿を使用し、XマウントもL字アングルを使って自作したものだった。「高さは12mでしたが、良く飛びましたよ」と海老原さんは話す。

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木柱に上げた2バンドキュビカルクワッドアンテナ。

1968年には、クワッドアンテナを21MHz用フルサイズ5エレメント八木アンテナに取り替えた。ブーム長約10mのこのアンテナも自作だったが、特長として、ガンママッチの給電部にバリコンを内蔵し、それを100V仕様の60秒で1回転する電気時計用ワーレンモーターを使って回すことができるように設計した。21MHz帯はバンド幅が広いため、CWとSSBでは同調点が異なる。これを整合するための工夫だった。送信してSWRメーターを見ながらこのモーターを回して調整した。このアンテナは21MHz専用だったが、大変良く飛んだという。

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ワーレンモーターを備えた5エレメント八木アンテナ。

[パンザマスト]

その後、大阪万博会期中の1970年8月、海老原さんは自宅を改築したが、アンテナをもう少し高くしたくて、自宅の改築に合わせ、業者に依頼して14.8mのパンザマストを建柱した。業者からは3人か4人ほどの職人が来て、穴掘りから始めて1日で建ててくれた。普通パンザマストは、1ユニット毎上にはめて、ハンマーでたたき込んでいくが、海老原さん宅の場合は、支えにする木柱が先に立っていたため、パンザマストは地面で組み立てた後、木柱に滑車をかけてロープで引き起こす方法で建てた。

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建設中のパンザマスト。

パンザマストを建柱後、海老原さんの自宅にパンザが建ったことを聞き、ある日の夕刻、JA3GZN葛西さんとJA3HVC横江さんが様子を見にやって来た。2人はすでに購入して自宅に置いてあったモズレー社のトライバンダーTA33を見つけると、これから取り付けようという話になり、3人がかりでその日のうちに上げてしまった。作業が終わったらもう日が暮れており、その日は、海老原さんの家で、皆ですき焼きを食したことを憶えている。

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パンザマストに上がったTA33。

しかし、アンテナをTA33に変えたところ、不幸にもTVIが出てしまった。TA33の給電部はバランなしの同軸直づけだったことが原因で、バランを入れたらかなり軽減したという。この頃の海老原さんはDXCCに特に力を入れて運用しており、バンドやモードにはこだわらず、ニューカントリーを追いかけていた。

[DXCCを申請]

今では、珍局のオンエアなど、DX関する情報は、インターネットを利用して伝達されるのが一般的だが、当時はパケット通信はおろか、V/UHFのDXネットもまだ稼働しておらず、DX好きな仲間が、電電公社(現在のNTT)の有線電話を使って情報交換していた。

関西で活躍するDX’er達も、お互いに電話で連絡をとりあって、DXに関する情報を交換していた。当時のメンバーとして、JA3AA、JA3AQ、JA3BG、JA3DJ、JA3DY、JA3IW、JA3UI、JA3GZN局らが活躍しており、海老原さんもその仲間に入れてもらっていた。その中でも一番アクティブだったのは大阪のJA3UI岸本さんだった。岸本さんは、自作のSSBトランシーバーでオンエアしていたが、ものすごく上手に作ってあったという。

1974年、海老原さんは、260カントリーのQSLカードを提出してARRLにDXCCを申請した。これだけのQSLカードが揃うまで申請しなかったのは、「単に面倒だったからです」と話す。その後は、最低でも2年に1回は、DXCCの追加申請を行い、徐々にクレジットの数が増えていく。

[グッピー]

海老原さんは、アマチュア無線以外にもこれまで色々な趣味を経験してきた。まずはグッピーの飼育である。自宅の近所に熱帯魚を取り扱うショップがあり、部屋のインテリアに良いかなと思って、1971年に水槽を購入し、店員の薦めもあってグッピーの飼育を始めた。すると、知らない間に、水槽の中のグッピーの数が増えていた。そのことを熱帯魚ショップで話をしたところ、グッピーは繁殖させて楽しむことができるということや、繁殖のコツなどを聞かされ、徐々にグッピーに熱中していった。

グッピーは卵胎生を行う魚で、他の多くの魚と異なり、メスが胎内で卵をふ化させるため、初めから魚の形で生まれてくる。そのため、知らない間に数が増えていたということになる。また、グッピーは自然に交尾し、1年に何回も出産するため、形や色の良い個体同士を掛け合わせることによって、独自の形や色を作り上げることができる。さらに自分で楽しむだけでなく、全国各地で開催されているグッピーの美しさを競う品評会に参加する楽しみもある。

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海老原さんが品種改良に成功したグッピー。 このグッピーで後日、優秀賞を受賞。

海老原さんは、最盛期には水槽20個にまで手を広げた。自宅の廊下が水槽で一杯になったという。各水槽に酸素を送るポンプも、個別のポンプでは間に合わず、ロータリーコンプレッサー式のエアポンプから、ビニールホースで各水槽に配管した。また、水槽が20個もあるので、毎日どれかの水槽の水替えを行わなければならない状況だった。

[品評会で優秀賞]

3年ほど飼育(品種改良)に熱中した後、海老原さんは品評会でついに優秀賞をもらった。賞をとると、どのようなノウハウで品種改良したのかと尋ねられるようになり、飼育仲間がだんだん増えていった。しかし、その頃をピークに、次第に水替えの大変さがこたえてきた。さらに魚が増えるとえさ代や感染予防の薬代もバカにならなくなっていった。良い色を出すためには高いえさが必要なため、海老原さんは米国製のえさを使っていたからだ。

また、生き物を扱っているため、家を空けられないことも負担になってきた。そのため、海老原さんは、少しずつ友人に水槽ごとグッピーを譲って規模を縮小していった。「引き受けてくれる友人がいたのは幸運でした」と話す。その後は魚の飼育は行っていないが、魚釣りは好きで、今でもやっている。

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1971年に参加したグッピーコンテストにて。