[CBとの混信]

海老原さんらが使っていたラジコン用の周波数帯は27MHzだったが、この周波数帯に違法のCB(市民無線)が混信してくることもあった。小さい電力(500mW)のラジコン用電波に対し、違法のハイパワーCBが混信すると、全くコントロールが効かなくなって、ラジコン飛行機は、ほとんど瞬時に墜落したという。これはラジコン用の27MHzがCBの周波数帯に隣接していたからだった。

合法CBであれば出力は500mWなので、混信することは無かったが、違法のハイパワーCBの場合は、送信機の性能も悪く、隣接したラジコン周波数に被ってきた。これへの対策として、クラブ員が交代で野洲川の土手に駐車した車で待機し、27MHz用のアンテナを付けた砂利運搬用のダンプカーなどが来たら、無線で教えてくれるようにしていた。CB機には外部アンテナを付けること自体が違法だったため、27MHz用のアンテナを付けている車両は違法CBの可能性が極めて高かったからである。連絡があれば、すぐに飛行中の機体を着陸させ、その車両が立ち去るまで飛行は中止した。

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京滋RC飛行クラブの飛行フィールド

その後、海老原さんらは40MHzに移行し、ハイパワーCBからの混信は回避できたが、競技会などでは、27MHzを使わざるを得ないこともあった。その場合は、ハイパワーCBに注意しながら飛ばしたという。またその頃には、プロポメーカーがラジコン周波数専用のモニター(スペアナ)を発売しており、高価だったがクラブで1台購入して、27MHz帯をモニターした。なお、海老原さんがラジコンを止めるころには新しく72MHzがラジコン用に割り当てられ、72MHz用のプロポも売り出されたが、海老原さんが使うことはなかった。

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京滋RC飛行クラブには外国人メンバーもいた。右から2人がチェコ人のハブリさん夫妻。

[プロポ]

海老原さんが使っていたプロポは、東大阪市に本社のある三和電子機器が製造していたSANWAブランドのもので、故障したときに、修理のため本社まで直接プロポを持って行ったことも何度かあった。その頃海老原さんが使っていたのは4チャンネルのプロポで、エンジンのスロットル、主翼のエルロン、水平尾翼、垂直尾翼を4つのサーボで制御した。所有する機体が増えてくると、機体毎に4個ずつのサーボが必要で、さらに墜落させて受信機やサーボが壊れてしまうこともあるため、サーボの費用もバカにならなかった。

後年には、6チャンネルのプロポが発売され、新たな2チャンネルを足(ギヤー)の出し入れや、トリム(燃料が減ると機体が軽くなるのでそれを調整する翼)、フラップなどに使った。なお、プロポの電池には充電式のニカド電池を使用しており、飛行場では電池を充電できないため、フル充電した電池をいつも4、5セット持って行った。

[ラジコン飛行機の楽しみ方]

海老原さんによると、ラジコン飛行機の楽しみ方は大きく分けると3つある。まずは海老原さんが熱を入れた「FAIパターン」。これは定められた飛行パターンを如何に忠実に飛行できるかを競い、得点によって順位が決まる。次に、スピードを競う「パイロン」。パイロン用の機体は、速く飛ばすために翼が薄くて短く安定感が悪い。3つ目は機体を如何に実機そっくりに作るかを競う「スケールモデル」。たとえば実機の1/50に作り、色も実機と同じように塗装して、できあがった形を競う。スケールモデルは一般受けするので、競技会には家族連れも多い。スケールモデル機は、半年から1年がかりで機体を作る。

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スケールモデルの例。

その他には、エンジンなしのグライダーもある。グライダーは、かつてのゴム動力飛行機のように、上昇気流に乗せれば長時間飛ばすことができる。しかもゴム動力飛行機とは異なり、コントロールが効くので、自分で上昇気流を探すことができた。上昇気流の条件は、下に水たまりがあるところ、温度の変化があるところ、上に積乱雲のあるところなどで、上手な人はすぐにそれを見つけたという。

[FAIパターン競技]

FAIパターンは、200mの飛行フィールドを使って、定められた飛行パターンを行う競技だが、高翼機では絶対にできないので、FAIパターン用の低翼機を作って競技に臨んだ。「高翼機は安定に飛ぶための機体なので、俊敏な動作はできません。FAIパターンをこなすには、機体が操縦スティックの操作に敏感に反応しなければならず、安定に飛んだらダメなのです。」「その他、機体が操縦者から離れた時でもどちらを向いているかを見極める必要があるため、目が良くないとダメです」と海老原さんは説明する。

海老原さんは、京滋RC飛行クラブに所属していたが、クラブには国際大会出場レベルのメンバーもいて、「彼の演技をみていると、私などは足元にも及ばない技量でした」と話す。FAIパターンの競技はかなり高度な技量が必要なため、「彼からずいぶん指導してもらいました」と話す。

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離陸前の点検の様子。

海老原さんは、大きな競技会での入賞経験こそなかったが、クラブ単位で参加する競技会には度々参加していた。「地方に遠征して地場のクラブとの親睦飛行会も楽しみでした。東海地方にはよく遠征しました」と話す。海老原さんは、1975年頃からラジコンを始めて、1980年頃まで5年間くらい続けた。この時代は、日曜日は無線よりラジコンに熱中していた。

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京滋RC飛行クラブの競技会での表彰式の様子。

後から判ったことであるが、アマチュア無線の先輩JA3UB三好さんがラジコン機でも大先輩であった。三好さんはラジコンの本まで書いており、その本を海老原さんはたまたま所有していた。三好さんはその本を旧姓で執筆していたため気づかなかったが、海老原さんの家に訪ねてきたとき、シャックに置いていた海老原さんの機体を見つけ「ワシもラジコンをやっていたんだ」という話になった。さらに、自分が執筆したその本を偶然にも海老原さんの本棚で見つけたのであった。