[1.9MHz]

1974年に日本で初めて1.9MHzで走行しながらの運用を実現した海老原さんは、その後も1.9MHzでの移動運用を継続し、京都府下は全市、さらには滋賀県の市もほとんど回った。翌1975年に入ってもJCCサービスを続けたが、ゴールデンウィークの5月3日に安来市、5月4日に出雲市へのサービスを以て移動運用を終了している。その後は自宅から、自局の1.9MHzでのJCCハンティングに没頭し、ログを見ると1975〜1977年の3年間は全交信の約90%が1.9MHzでの運用だった。その頃はラジコン飛行機に熱を入れていたこともあり、自分がサービスに出かけるのではなく、追っかけ側に回っていた。

ちょうどその間、1976年5月30日〜6月2日に、JARLが創立50周年記念行事の一環として日本最南端の沖ノ鳥島から7J1RLの運用を行った。この7J1RLは、DXCCを発行するARRLからセパレートDXCCエンティティ(当時はカントリー)と認められ、約78時間の運用で総計73エンティティの8931局との交信を成功させた。しかし、基本ルールに沿わない特別なケースとしてセパレートDXCCエンティティと認められたため、色々と後に問題を残すことになった。海老原さんは、14MHzSSBで1QSOだけしておいた。その後、1980年11月30日付けで沖ノ鳥島は消滅エンティティになり、小笠原の一部として今に至っている。

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海老原さんが受け取った7J1RLのQSLカード。

1978〜1980年は、1.9MHzでの国内QSOと、14MHzCWでのDX、14MHzSSBでのDXをほぼ同じくらいの割合で運用している。平日は自宅でラジコン飛行機を作り、それを日曜日に飛ばしに行きながらも、1.9MHzのJCCと、オールバンドでのDXCCを着実に増やしていった。その頃使っていた1.9MHzのアンテナは40m長のロングワイヤーで、このアンテナは2011年の今日まで変えたことがない。

一方、HFのアンテナについては、1980年頃に、モズレーのTA33をクリエイトデザインの214Aに載せ替えた。このアンテナは、14MHzは3エレ動作だったが、21MHzが4エレになりゲインがアップした。当時はサイクル21のピークで、この214Aを駆使して海老原さんは21MHzでも多くのDXCCニューを獲得している。

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TA33を214Aに交換。

[JARL京都クラブに入会]

話は前後するが、海老原さんは、2アマ取得後にJARL京都クラブに入会した。JARL京都クラブはもっとも歴史のあるクラブのひとつで、創立は1947年で海老原さんの開局より12年も古く、会報の第1号は1948年に発行されている。JARLが再結成されたのが1946年、戦後初めてアマチュア無線局の免許が発給されたのが1952年であることから、歴史の古さが分かる。

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1948年に発行されたJARL京都クラブの会報第1号。(※クリックすると画像が拡大します)

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1950年頃のJARL京都クラブメンバー。(※クリックすると画像が拡大します)

連載第2回にも記載したが、海老原さんは中学生時代から、JARL京都クラブのミーティングに顔を出していた。正会員として入会したのは、2アマ取得後の1958年で当時はJA3AD深田さんが会長の時代であった。当時丸太町にあった日赤京都府支部での月例ミーティングに参加するのが楽しみであったという。その後京都クラブは社団局JA3YAQを開設する。日赤の社屋が東山七条に移転してからは、海老原さんの軸足が「日赤救急無線クラブ」JA3YPHの方に移ったのと、1969年に京都DXクラブの創立に関わったことなどで、京都クラブでの活動は一時的に下火になっていった。

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JARL京都クラブで比叡山に移動運用。1960年頃。左から2人目が海老原さん。

[京都DXクラブ]

1960年代後半、京都市内ではDXingにアクティブな局が多く活躍していた。それらの局は、「誰々のところに新しいアンテナが上がったそうなので、見に行こうか」程度で集まることはあったが、定期的にミーティングを行ったり、会報を発行したりするDXingを目的とするクラブは存在していなかった。そんな中、JA3AJ小川さんを中心として、「毎月のミーティングなどをしようじゃないか」という話が出てきた。

1969年8月19日、「京都勤労会館」に19名のDXerが集まって「京都DXクラブ」の設立結成会が開かれ、投票により、その場で会長にJA3AJ小川さん、庶務会計にJA3AN西脇さん、DXレポート・会報担当にJA3DY橋本さんと海老原さん、幹事にJA3APL長野さんが選出され、京都DXクラブが設立された。月例のミーティングは、毎月9日に京都市の厚生施設であるである「東山会館」(現在の国際交流会館)で開催することが決まった。

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1971年の京都DXクラブ新年会にて。左から2人目が海老原さん。

橋本さんと海老原さんが担当になった会報は、9月9日に第1号を発行したが、当時橋本さんは業務多忙だったため、編集は海老原さんが行った。もちろんパソコンやワープロは存在しておらず、すべて手書きで作った。クラブ員のQSOレポート/受信レポートや、DX局のQSLインフォメーション、各局短信、製作記事やその他のトピックスを掲載した。会報の複写は職場のコピー機を借りたという。

[JA3ZDXを取得]

京都DXクラブでは、毎年2回程度、親睦会と題して1泊旅行を行った。夏は日本海まで海水浴によく出かけた。この旅行などの際に出先から運用できるように、クラブ設立後しばらく経ってからJA3ZDXの免許を取得し、民宿などからJCCサービスを行った。JA3ZDXを取得するにあたっては、JA3ALO菅さんが、サフィックス「ZDX」の発給順番になるまで数日間、近畿電監へ日参をしたというエピソードがある。送信機にはTX-88Aを使用し、持ち込み検査をパスして、移動する局の50W免許を受けた。

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1971年夏、宮津市の松原海岸で海水浴兼移動運用に参加。前列右端が海老原さん。

親睦会/移動運用の他には、ビアーミーティング、忘年会、近郊DXクラブとの交流などなども行っていた。忘年会は、いつも電電公社(現在のNTT)の保養所である琵琶湖の湖雁荘を利用した。月例ミーティングを京都市の厚生施設で行ったのと同様、電電公社の湖雁荘を利用できたのも、メンバーに職員がいたからであった。合同ミーティングは、奈良や滋賀、大阪のクラブとよく行った。

「JA3AD深田さん、JA3AJ小川さん、JA3AN西脇さん、JA3AQ竹内さん、JA3DX川勝さん、JA3DY橋本さんなどの大OMをはじめ、メンバー各局は遊びにも大変アクティブでした」と海老原さんは話す。クラブ創立から約1年後の1970年11月、会長が小川さんから深田さんに替わり、それに伴って海老原さんも会報担当を交代している。

当初、有線電話で行っていた珍局の出現情報の交換などの連絡は、メンバー各局のシャックに430MHzFM機が揃うと、オンエアで行うようになっていく。クラブ員は一番多い時期で22〜23人まで増えたが、JA3ZDXの常置場所で、クラブのまとめ役だった小川さんが2003年に永眠した後、クラブ全体としての活動は休眠している。ただし、今でも430MHzを使ったクラブ員同士の連絡は行っている。社団局JA3ZDXの免許も流れてしまったが、また復活しようという話も出ているという。