[約840kmとの交信]

「ついに日本アマチュア無線VHFの歴史に1頁を記録するようなDXレコードが生じました」と、この日のことをJARL(日本アマチュア無線連盟)発行の「アマチュア無線のあゆみ」はこう記している。昭和28年7月14日藤室さんは夕方に外出先から帰宅、急いで受信機のスイッチを入れて50MHz帯を受信する。なんとなく異常伝播の雰囲気が感じられたので「どなたかお聞きでしたらご応答ください」と電波を出す。

それに応えたのが東京・新宿の山口意颯男(JA1DI)さんであり、山口さんも異常を感じており「どうもスポラデックが出ている気配ですね」という。「二人で少し離れて呼んでみよう」ということになり、藤室さんは再び電波を出して受信に移る。「いきなり、JA6BVが私を呼んでいる。それもごく近くと思われる強さだった」という。

時間は17時57分。山口さんも気がついて「3人で1時間近く話をした」らしい。ところが18時45分ころには交信が出来なくなった。その時に知ったのはJA6BVは九州・八幡の井上勝彦さん。距離は約840kmもあることが後で分ったが「RSは59または59++であり、東京ローカルと変りりなかった」ことを未だに記憶している。

[豊多摩郡落合町]

藤室さんは昭和6年(1931年)当時の東京府豊多摩郡落合町(現新宿区)に生まれた。その落合町は人口の増加とともに太平洋戦争前後に変遷を辿る。藤室さんが生まれた翌7年(1932年)に東京市に編入されたのにともない、落合町は淀橋町などとともに淀橋区となる。さらに昭和17年(1942年)に東京都となった後、戦後の昭和22年(1947年)に四ッ谷、牛込とともに3区が合併して新宿区となっている。

長々と落合町の変遷について記したが、現在では東京都の真中に位置し、一大繁華街となっている新宿区の北西部に位置する落合で育った藤室さんの当時を少しでも知って欲しかったからである。もっとも一家は1年後には杉並区の高円寺の陸軍官舎に移り、さらに1年後には中野区の朝日ヶ丘に転居している。父親は陸軍の軍人であり、しかも超エリートで頭脳明晰な優秀な家系の出であった。その家庭の姉2人、弟2人の長男として藤室さんは生まれた。

[四冠王]

父君は東京の伝統校である府立一中(現日比谷高校)の2年一学期を終え、9月に陸軍東京幼年学校予科に入学、続いて中央幼年学校へ進んだがともに首席で卒業し、その後の陸軍士官学校も27期全科の首席であった。大正4年(1915年)に少尉に任官し東京麻布の歩兵第一聯隊の「聯隊旗手」となり、中尉時代に陸軍大学校に入学。ここでも35期の首席で卒業した。

陸軍大学校校舎(昭和16年刊 赤坂区史より)

陸軍大学校の同期には、士官学校26期の首席で後に硫黄島玉砕で有名となった栗林忠道(後大将)さんが騎兵科にいたが、次席に甘んじている。この陸大の首席選びの時は「教官の会議で選出が揉めた」と後に藤室さんは聞かされている。いずれにしても幼年学校予科、幼年学校、士官学校、さらに陸大を首席で卒業し、日本陸軍で初めての「四冠王」となった。

その後、大尉の時にドイツの大使館の駐在武官補佐官を務めた。余談ではあるが藤室さんの背丈は191cmもある。「最近は3cm縮んで188cmです」と笑うが、父君も大きく加えて色の黒い人であったらしく、その時代の欧州での逸話がある。山下奉文中佐(後大将)が帰国した後にオーストリア駐在武官の臨時代理としてウィーンに滞在したが「あなたはインド人かシナ人か」とよく言われたという。

[番町幼稚園、版町小学校]

父君の弟に当たる叔父さんにも優秀な方がおられた。府立四中、一高、東大を卒業して三菱商事機械部に勤務し「マーチャント・エンジニア」となった。その叔父さんにも「いろいろなことを教えてもらった」という。このような事情もあって、藤室少年は秀才の集る千代田区の番町幼稚園、番町小学校に入学。越境入学にならないため知り合いの先生の家を寄留先として手続きして、自宅から通学した。

現在の番町小学校(同校のホームページより)

通学路線は、後に都電14系統となる当時の西武電車で本町通り3丁目から新宿に出て、新宿から四谷は現在のJR中央線、当時の省線電車で通った。当時の思い出は「西武電車にはドアがなく、満員の電車の手すり棒にしがみついて通った」ことだと言う。戦前、戦後しばらくの鉄道の歴史は誠に変遷目まぐるしく、大正10年(1921年)に開通した西武軌道は、紆余曲折の後、東京地下鉄道に売却された後、昭和17年(1942年)に東京市(すぐに東京都)に買収され都電となっている。

[小学3年で夏目漱石]

小学校入学は昭和12年(1937年)で、日中戦争が始まり国内も戦時色が濃くなっていた。姉2人が読んでいる本をいつのまにか読めるようになり、数年上の学年と同じ文字を知るようになる。「3年生の時”坊ちゃん””吾輩は猫である”などの夏目漱石の小説を読んでいた記憶がある」という。周囲にたくさんの本があったことも読書好きになった原因だった。

都電14系統の電車(昔の都電その他と九段小学校の同窓会のページより)

模型工作にも興味をもち軍艦の模型を作ったりしたが、徐々に電気に興味をもつようになる。2年生の時、電源トランスを作ったことがある。模型の電気機関車用に12V電源が必要になり、100V交流電源をトランスで下げれば良いことを初歩の本で知った。「ブリキ板やトタン板を花バサミで切って、鉄心を作り綿巻銅線を巻いた。

「トランスは一次、二次の巻き線数の比率により電圧を変えられる、というだけの知識で作り、交流100Vに接続してヒューズを飛ばして母親に叱られたことがあった」らしい。その後、ブザー、モーター、電信機を作ったりしていたが「友人のお兄さんに米沢工業専門学校の学生がおり、いろいろなことを教えてくれた。本だけではわからないこともそれで知った」と言う。