[欲しい工具は揃った]

藤室少年の父君は「軍人にならなかったらエンジニアになりたかった」と言うだけに、手先が器用で大工仕事も得意であった。それだけに家には工作の工具もあり、また「万力、ハンダこて、金工用の鑢(やすり)など必要なものはだいたい買ってもらえた」ことを覚えている。

ラジオとの出会いは四年生のころ。鉱石ラジオを組み立てた。鉱石検波器は当時有名なFOXTONブランドのメーカー品が売られており、コイルを手作りして作ったが「ヘッドホンが電磁式で鉄板を振動させて音を出す方式のため、かすかな音量でしか聞けなかった」ことを記憶している。

左は探り針式に近い鉱石検波器、手前の黒いノブを回すことにより検波感度の良い点を探すことができる。中央と右はフォックストン。出典:(社)日本アマチュア無線連盟、発行:「アマチュア無線のあゆみ」より

[鉛筆集め]

四年生のころの記憶では新宿の三越百貨店での「鉛筆稼ぎ」がある。藤室少年は友達と時々下校途中に百貨店に立ち寄った。「何しろ店内にはただで入ることができ、珍しいものがたくさんある。まっすぐ帰宅しなければならないと知りながら誘惑に負けていた」と言う。当時の百貨店ではどういう目的だったか、鉄道運賃を当てるゲームがしばしば行なわれていた。

距離当たりの運賃が決まっている場合、A駅からB駅までの子供料金はいくらか、急行を使った場合はいくらになるか、などという計算だった。ゲームに大人が大勢参加しても失敗する人が多いのを見ていた藤室少年は、思い切って答えをしゃべった。藤室少年の計算は早く正確だった。

「正解だと景品に鉛筆がもらえた。面白くて時々やった」こともあった。一方、トップクラスの小学校だけに勉強は厳しかった。宿題も書き取りや算数の宿題も多く「小学生でありながら12時過ぎまで勉強した」と言う。父親からは計算のスピードを上げることをやかましく言われた。「このことはその後の勉強や仕事の上で大いに役立った」と、藤室さんは感謝している。

[ラジオとの出会い]

藤室少年がはじめて真空管式ラジオに出会ったのは家にあった交流式ラジオだった。父親は昭和4年(1929年)にドイツから帰国する時、テレフンケン社製の電池電源のラジオを買ってきた。ところが、電池の充電をラジオ店に依頼している間は使えず、真空管が切れると、その都度「母が日本無線の本社に断線した真空管を持って、代替品を買いに行った」ことを聞いている。

しばらくすると、その煩わしさを聞いた通信隊の将校が「この受信機を下されば家庭用電力で動作する受信機を差し上げます」と提案。そこで母親は承知して国産の受信機と交換してもらったらしい。このため「私が知ったのはUY-224、UY-247B、KX-12Bを使ったそのラジオだった。今になって、テレフンケンのラジオを手放したのは残念だったと思う」と言う。

[父の死]

昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が開始される。父親はそのころ少将で「内閣総力戦研究所」の主事であった。翌年7月、藤室一家に悲劇が起きる。7月20日、父親は南方に赴任する元参謀次長を見送りに行ったが、急に体調が激変し陸軍軍医学校に運び込まれる。藤室少年ら家族も駆けつけるが病名は不明。

8月13日、開腹手術が行われたがアミーバー性肝臓膿瘍が全臓器に転移しており、施すすべはなく翌朝他界。死後、昭和14年(1939年)に中国・山西省に聯隊長として出征した折りにかかったアミーバー性赤痢が原因と判定され、戦病死の扱いとなり、中将に進級している。藤室少年がその病院で鮮明に記憶していることがある。入院直後父親が藤室少年に話した人生訓である。

[遺言]

藤室少年に父親は「私は本当は技術者になりたかったが、父親に言われて軍人となった。そして、自分の信ずることに従い精一杯の努力をし国のために働いてきた。お前も自分の希望する道を選び、曲がったことをせずに正しいと信じるところに従って行動しなさい。それが国に尽くす道である」と。「父が日本の敗戦を見なかったことは本人の幸せであったのかどうか」と、未だに答えを見出せないままである。

昭和初期、父君が欧州に駐在武官補佐官として赴任していたころより以後は、中国では日本軍が張作霖を爆殺し、ドイツではヒットラーのナチス党が大躍進するなど、後の第2次世界大戦の予兆が見え出した時代であった。欧州での体験、そして総力戦研究所で日本や仮想敵国のさまざまなデータを集めて分析していただけに「父は最後はソ連の参戦で日本の敗戦となると見越していたらしい」こと藤室さんは後に知る。

[中学入学]

藤室少年は、父君の亡くなる4カ月前、米国が東京を初めいくつかの都市を空爆した「ドウリットル空襲」を小学校で体験している。初めての戦争体験でもあった。翌昭和18年、藤室少年は第一山水中学に入学する。同中学は昭和15年(1940年)に山下汽船の山下亀三郎さんが陸海軍に献金した資金を原資として転勤の多い陸海軍の軍人家庭のために設けられた学校であった。そのため、転校をせずに済むよう寄宿舎が併設されていた。

山下汽船の山下亀三郎さん

当初、献金は「財団法人山水育英会」の資金として、戦死、戦病死した家庭の子女の教育費に使われていたが、翌年に国立(くにたち)に第一山水中学、関西に第二山水中学、そして調布の仙川に山水高等女学校を設立。後になって藤室さんは「家族が山水中学に入学させたのは戦病死した家庭であったためだったからだろう」と推測している。

ちなみに戦後、第一山水中学、山水高等女学校は桐朋中学・高等学校、桐朋学園芸術短大となり、芸術の分野ではユニークな人材を輩出している。また、香里園にあった第二山水中学は同志社香里中学・高等学校へと変っている。

昭和17年ころの第一山水中学(桐朋学園のホームページより)

現在の桐朋短期大学校舎(桐朋学園のホームページより)