[終戦]

鎌倉は空襲を受けることはなかったが、藤室少年は近くの都市への爆撃を遠くから何度か見ている。「平塚の空襲は夜に火の手が上がるのを見たし、横浜市内の昼間の空襲は勤労動員先の防空壕から出て見ていた」と言う。終戦の情報は多くの国民にとっては「寝耳に水」であったが、それでも少なからぬ関係者やその周辺には伝わっていた。

藤室さんもいろいろなルートから情報を入手していた。父君の従弟で海軍兵学校74期卒業のF少尉からは休暇で帰って来た折りに「連合艦隊は壊滅状態。残っている艦も石油がなくなり停泊したままで、空からの攻撃には対空射撃で防戦しているのみ」と聞かされていた。それを聞いて「裸同然で本土決戦になるのか」と暗澹たる気持ちになったという。

さらに、母君も東京の陸軍関係者から情報を得ていた。かつての中将の家庭であり、また、親族に軍関係者が多いだけに、数日前に政府がポツダム宣言受諾を決めたことを知らされていた。藤室少年とともに勤労動員の仕事をしていた生徒の中でも、事務所勤務の同級生は「海軍関係の工場だけに薄々感づいてた」と教えてくれた。

「終戦の詔勅」をレコード盤に録音する昭和天皇

[8月15日]

終戦の「玉音放送」の行なわれるこの日、工場の朝礼で総務課長が正午から天皇陛下直々に放送があることを告げた。内容まで知っている総務課長は終戦を伝える内容であることをそれとなくにおわせたらしい。藤室少年は「総務課長の言うことをきちんと聞いていれば終戦宣言であることを理解できたのに、大半の同級生は激励の放送だろうと理解していた」と言う。

藤室少年は「君達は総務課長があれだけ言われたのに分らないのか。今日で戦争は終わりだよ」と口を滑らせてしまった。すると、同級生は「貴様は国賊だ」と取り囲み殴りかかろうとした。「殴るなら昼の放送を聞いてからにしろ」と反論した。その場は工場の職員に引き離されて収まったものの「職場に戻っても仕事に熱が入らなかった」と言う。

戦局が最悪の状態であることを知らない国民が多かったことに加えて「神国・日本は不滅」と信じきっていたのが当時の風潮であった。このため「敗戦」の言葉は最後まで禁句であった。11時55分。藤室少年は工場の裏にある民家を訪ねて「放送を聞かせ下さい」と頼んだ。どう言うわけか「工場にはラジオがなかった」と藤室さんはいう。

[国が滅んだ訳ではない]

民家では大勢の人が放送を聞けるようにラジオを庭に向けてくれた。「朕深く世界の大勢と帝国の現状に鑑み非常の措置をもって・・・」天皇陛下の抑揚のない沈痛な放送が始まった。「予め覚悟をしていたもののまことに残念だった。涙を押さえて民家へのお礼もそこそこに職場の分析室に戻った」とその時を思い出している。

ラジオ少年であった藤室さんはその時のラジオを「真空管4本を使った放送局型123号、高周波1段増幅のトランスレスラジオだった」と鮮明に記憶している。放送局型ラジオは、日本放送協会がラジオの普及を目的に標準化し、ラジオメーカーに生産を依頼。1号から11号、さらに122号、123号などがあったらしい。基本的にはキャビネットのデザインも統一指定されたが、異なるものもあった。

放送局型11号と見られるラジオ受信機

「玉音放送」を聞いた藤室さんは、落胆したものの「敗戦ではあるが国が滅んだわけではない」と気持ちを新たにしたと言う。その後「我々は動員が解除され学校に戻ればいいが、海軍と取引していたこの会社の人たちはどうなるのだろうか、と余分なことを考えたりした」ことを覚えている。

夕方になると戸塚駅の周辺で厚木航空隊の兵士が「断固抗戦」のビラを配っていた。敗戦を信じられない国民も多かった。翌朝もいつもと同様に戸塚駅に集った動員の学生らは隊列を組んで工場に向かった。前の日に「国賊」とののしって殴りかかろうとした同級生は「お前の言ったことは本当だったなぁ」と憮然とした面持ちで話しかけてきた。「俺は嘘はつかぬ」とだけ藤室少年は答えた。

[占領軍]

敗戦後もしばらくは工場にとどまった。仕事はなくなったが空き地で作っていた「サツマイモのまだ細いものを掘り出したり、残務整理をしてほどなくして会社を離れた。「約4カ月足らずの勤めであった。会社の方にごあいさつをして辞去したと思います」と、記憶力の良い藤室さんにしてはこの時のことが定かではない。激変に直面していたためらしい。

8月末、藤沢駅で「占領軍の空挺部隊と思われる一団」を見つける。「ごく小さなモンキーバイクとハンディトランシーバーをもっていたのが印象に残っている」と言う。後にトランシーバーは「SCR-536/BC-611」であることを知る。「米兵の言葉はスラングが多く、さっぱり聞き取れなかった」というのも藤室少年の記憶であった。

「ある米軍将校が小さな手帳に英単語とその日本語訳を記入して一所懸命に勉強している姿に感心した」藤室少年は「それに引き換え、中学3年生とはいえ動員その他で満足な授業を受けていないため、米兵の質問に答えられないことが多かった」と恥ずかしさを感じている。「それまではキングスクラウンの英語を教えられていたのに、アメリカ英語はかなり異なっていて教師も苦労していた」と当時の状況を語る。

1926年8月号のQST JARLの発足を伝えた

[図書館通い]

それでも米兵と何とか応答しているなかで、鎌倉市内の”長谷の大仏様”近くに図書館があるのを教えてもらい日曜日に出かけてみると、蒲鉾兵舎を利用した小さな図書館があった。ところが「ポビュラーサイエンス」「ポピュラーメカニックス」程度の雑誌しかなく、興味を引くものはなかった」と、無線関係の本や雑誌を期待して出かけた藤室少年は落胆している。

その後、日比谷にCIE(民間情報教育局)が図書館を開設したというニュースを知り、英語辞書を片手に出かけた。「期待していた通りARRL(米アマチュア無線連盟)のラジオアマチュアハンドブックや機関誌のQSTがあり、夢中になって読んだ」と言う。「大勢の女性が図書館に来ているのに感心したが、最新のニューファッション情報を求めてきていたものだったことを後で知った」と言う。