[日米の差]

終戦前後の無線雑誌について、藤室さんの鮮明な記憶がある。戦時中にはほとんどの雑誌は休刊していたが「”無線と実験”は昭和20年(1945年)には1月・2月、4月・5月、7月・8月、11月・12月がそれぞれ合併号として発行された。その号のなかには製本されないまま折り畳まれて書店に出たようなものまであった。それでも貴重な存在だった」と言う。

それに比べて米国の「QSTは戦時中も1冊も欠けることなく発行されていたので大したもの」と感心している。戦時中、米国など敵国の書籍や雑誌のいくつかは日本にも入ってきており、雑誌に転載されたり軍部も技術の趨勢を把握するのに利用していた。入手ルートは中立国経由であり、戦時中でも海外の技術動向は掴もうとの努力は続けられていた。

[うらやましい米国]

このため藤室さんは戦時中にも”無線と実験”誌上で米国の情報を断片的に知っていた。「米国でも戦時下で女子動員が行われており、軍用通信のオペレーターや無線機工場で組み立て、調整の工程で働く様子が写真で紹介されていた。細部は分らないまでもどんな機器が使用されているのか知ることが出来た」という。

戦後に藤室少年はCIEの図書館でその時の原本に出会い「懐かしさを覚えた」と言う。また、米国の雑誌には戦後、米軍の余剰物資が大量に放出され、どのような価格で売られているかも掲載されていた。「戦前のRCA真空管マニアルに掲載されていた真空管が定価の半値以下で販売されていることを知り、うらやましかった」と言う。

一方、戦後最初に書店に並んだ日本の無線雑誌は”無線と実験”の7、8月合併号であることは先に触れた。藤室さんは「記事の大部分は戦時中に書かれていたもので、編集後記のみが戦後になって書かれていた。このためアマチュア無線に関する記事は掲載されていなかった」と言う。

[0-V-1、0-V-2を製作]

次号の11、12月合併号には「齋藤健(戦前J2PU)さんが米国のQST誌の記事の中からVFO(可変周波数発振器)について紹介しており、非常に興味をもった」ことを藤室少年は覚えている。短波は戦前は受信だけでも免許が必要であり、戦中は受信も禁止されていたが、終戦の年の9月18日に解禁された。このため、ラジオ雑誌には受信機製作記事の掲載が始まった。

藤室少年は「仲間と夢中になって読み、早く受信機を作りたいと話し合うが中学生の身では高級なスーパーヘテロダイン式受信機の製作は出来なかった」と言う。そこで簡単な「並3ラジオ」と呼ばれていた0-V-1方式の受信機を作ることになった。最初の真空管を使ったラジオの自作だけに、藤室さんは当時のことを詳細に記憶している。

「最初は木箱のシャーシにしたが不安定なことを知り、アルミ板でパネルを作り、ブリキ缶を母からもらい、切って補強してシャーシにした。結局0-V-2を作ることになったが、大容量のバリコンを使い、しかもダイヤルの減速比も大きくないため、わずかにダイアルを回しただけでも同調点がずれてしまう」など苦労したらしい。

そこで、バンドスプレッド機構を追加するなど「再生をスムーズにかけるノウハウを学び、その結果0-V-2でもある程度までのレベルであれば十分な性能をもっていることを知った」と言う。このように、藤室少年はこのころにはかなり基本的なラジオ受信機の技術知識を吸収していたと言える。

[SWL制度]

戦後すぐにJARL(日本アマチュア無線連盟)は再建されたが、アマチュア無線の再開の時期は全く分らない状況であった。敗戦国日本に駐留しているGHQ(連合軍総司令部)の意向が日本の電波行政を支配していたからである。また、連合軍そのものがさまざまな周波数を使い無線通信を行っていたことも一因であるが、日本の復興支援のための行政に多忙であり、電波行政まで手が回らなかったからでもあった。

JARLは公式、非公式にGHQや日本政府の関連部門に再開を働きかけるとともに、短波受信の技量養成も兼ねて「SWL制度」を設け会員を募り始めた。会員になると「SWLナンバー」が送られ、海外放送などの短波受信報告にナンバーが利用できるようにした。藤室さんは「JAPAN1-112」のナンバーをもらい、VOA(アメリカの声)BBC(英国放送)モスクワ放送などの短波による日本語放送受信に熱中する。

SWLメンバカード 新潟市の阿部(JA0AA)さん所有

[鎌倉クラブ]

JARLはまた、全国各地に「無線クラブ」の設立を呼びかけてもいた。来るべき免許を前に送受信機の技術力を蓄積するとともに、関連情報の伝達組織として活用しようとのねらいもあった。さらに、全国的に設立された「無線クラブ」の力を免許再開のための圧力とする目的もあった。

藤室少年の地元である鎌倉には戦前の錚々(そうそう)たるハムがいた。有坂磐雄(同JLYB/J1CV/J6CD/J2KR)さん、中川国之助(戦前J1EE/J2HI)さん、渡辺泰一(同J1FV/J2JK)さんらである。有坂さんは海軍軍人でありJ1のプリフィックス制定前に免許を取得し、また、J6は海軍から東北帝大に委託学生として派遣された時に取得している。

有坂さんの最初のQSLカード

その鎌倉で「鎌倉クラブ」の発足を計画したのが掛川甲子男(後にJA1TX)さんであった。「無線クラブ」は昭和23年(1948年)6月時点で全国に17クラブが発足、1年後の6月までにさらに15クラブが出来あがったが「鎌倉クラブ」は昭和24年(1949年)に生まれている。藤室さんは発足と同時にメンバーとなった。