[東工大での関東支部行事]

戦後、東京・大岡山にあった東京工業大学でしばしばJARLの会合が開かれた。戦前のハムである大河内正陽(戦前J2JJ)さんが同校の助教授であり、アマチュア無線再開活動のリーダーの一人であったからである。終戦の年の11月から12月にかけてはJARL再結成、無線再開の会合が盛んに開かれた。もちろん、旧制中学の生徒である藤室少年がこの再結成委員会の会合に出るはずはないが、その後の関東支部の行事に参加するようになる。

1年後の11月に関東支部大会が同校で開かれ、その後はミーティングや講演などの活動が始まった。当初の関東支部は東海、北陸、信越のエリアも含まれていたが、その後、徐々に各エリアごとに支部が出来あがっていく。いずれにしても藤室さんが同校の集りに参加したのは昭和21年年末以降であり、その集りで「講演や実物による説明があり大層勉強になった」と言う。

戦時中、中川さんはVHFでの情報通信の実験に参加。船上での実験中の中川さん(アマチュア無線のあゆみ)

戦前のハムが中心となって運営したJARL関東支部の集りに15、6歳であった藤室少年が参加したことになるが「同年齢の若者が多く、気後れするような雰囲気でなかった」と、当時を語っている。そのころはプラグインコイルを何個も作り、それを取替えては海外放送を受信していたが「アマチュア無線バンド専用のコイルを巻いてからはアマチュア無線の受信が楽になった」と言う。
[猛烈な勉強]

「オートダインでは高周波増幅を付けるとアンテナとの問題は楽になっても、ゲインは思ったほど取れない。相互コンダクタンスの大きな真空管を使うのも案外難しい」「短波用のスーパーを備えてみたがイメージ混信がひどい。高周波増幅がイメージ除去のために重要」「中間周波数増幅の帯域幅を狭くしないと混信除去が出来ない」。このころ藤室少年の知識は日増しに高まっていった。

結局、藤室少年は「中央無線の本社まで行き、専用の部品を購入して高周波1段、中間周波2段の本格的なプラグインコイル式のスーパーを組み立てた。本来ならば3連バリコンを用いるべきであるが、完全なトラッキングを行うことが困難と考え最大容量185pFの直線容量型3個を採用した」という。

さらに「28MHzではアンテナが重要であることを身をもって理解できた。14MHzならクリップコードによる短いアンテナでも入感する信号がSメーターを振らしてくれるのに対し、28MHzでは簡単なダブレットアンテナが最低限必要だった」国内外の関係雑誌、書籍を読み、先輩の話しを聞き、すでに、藤室さんの知識は「ラジオ少年」の域を脱していた。

[民間検閲部に出頭せよ]

ある時、鎌倉警察署から「明日、横浜のCCD(民間検閲部)に出頭せよ」との通達を受けた。どうやら郵便物の検閲に引っかかったらしく「母に付き添われて神奈川県庁近くの建物に行くと、2世らしい係員から質問攻めにあった。厳しい取り調べの末、やっと解放された」ことがあった。藤室さんにもその真相はわからなかったが、友人に出した手紙の内容が問題になったらしかった。

その手紙は、中学のM先生から聞いた話を書いたもので「M先生は戦時中、軍隊に行く時に"万葉集"と"英和・和英辞典"の2冊をもって行ったため、上官からにらまれたが、辞典は敗戦後に米軍の翻訳官をさせられ役に立った」という内容であった。藤室さんはどうやら「万葉集が誤解されて国家主義者と疑われたらしい」と言う。

調べは徹底していたらしく、中学の校長にまで説明を求めた他M先生の自宅周辺まで聞きこみがあった。取調べで、藤室さんが見たのは「郵便物は開封され、さっと目を通し問題のないものは検閲済みのスタンプを捺され、引っかかったものは隣室に回されてタイピストが翻訳、上司の米軍士官に渡される」という情景だった。

「GHQは言論の自由を認めておりながら郵便の検閲で信書の秘密を破り、新聞や放送の原稿検閲を行い時には発行停止をさせた。被占領国民は敗戦の悲哀を味わうのみだった」と当時のつらさを語っている。このように検閲は徹底したものだったため「速達でも、東京、京都間で57日かかった例があったと聞いた」と藤室さんはあきれている。

[露天商あさり]

昭和23年(1948年)11月ころ、鎌倉八幡宮の近くに住んでいた中川さんから「真空管6AK5を見つけたらぜひ買っておきなさい。大変優れた性能です」と教えられた。藤室さんは「その時、中川さんは真空管をシックスAKファイブと呼んでいた」ことを鮮明に記憶している。そんないきさつもあり、藤室さんは鎌倉から上京する時には横須賀線の新橋駅で降り、都電通りを御徒町まで歩いて露天商で売られている無線部品を探すようになった。

神田駅近くで商いをしていた元予科連出身の蒲原さんに聞いたところ、「一本150円」というので2本購入、短波のスーパーヘテロダイン受信機に採用した。その結果「Gmが5mSとエーコン管の4倍あるだけに格段に性能が向上し、十分に満足する結果となった」と言う。

[ソ連の駐在武官に誘われる]

いつも下車する新橋駅では毎日大量の新聞を買い求めている外国人がいるのを知った。後に駐日ソ連大使館駐在武官補佐官のニコライ・リテンコ中佐であることを知る。彼は仕事上の情報収集のために各社の新聞を集めていたが、顔を会わせているうちに「旧日本陸軍の若手将校にコネを付けて会わせて欲しい」と切り出した。

エーコン管各種(古典真空管グラフより)

彼は、一部の旧将校が米軍に対して良い感情をもっていず、何かを企んでいると勘ぐっていたらしく陸士の52期~58期あたりが集って飲んでいる所に接触したがっていることが分った。その話に一部の陸士出の旧将校は興味を示した。補佐官は藤室さんに「何か欲しいものはないか」と聞いてきた。藤室さんは、米軍の横流しの闇物質にはないが、ソ連にはあると聞いていた「虫下しのサントニンが欲しい」と言うと、次に会った時に持って来た。