[野坂さん命拾い]

補佐官の持って来た錠剤の包装を見ると日本陸軍衛生材料廠のものであった。恐らく満州あたりで接収したものと考え「馬鹿にしている」と憤慨した藤室さんは旧軍人への橋渡しはしなかった。これには後日談があり「鎌倉市議会議員の共産党員が話しを聞きつけて「その駐在武官補佐官を紹介して欲しい」とたびたび言うので、補佐官に打診したところ"私、日本共産党嫌いです"と簡単に断られてしまった」と言う。

軍人の家系であった藤室家ではあるが、戦前、前後の筋金入りの共産党員である野坂参三さんとのつながりがあった。藤室さんの祖母は野坂さんの遠縁に当たり、野坂さんの親から依頼されて、慶応の学生時代の野坂さんを下宿させたことがあった。戦後、野坂さんが中国から帰国した時、鎌倉に住んでいた野坂さんのお兄さんを訪ねてきたが、その折に藤室さんも野坂さんに会っている。

それを知った共産党員が藤室少年に接触してきたのであるが、その後、しばらくして悲しい出来事があった。「最初、米軍は野坂さんを利用価値があると考えていたようであるが、邪魔になると自動車事故に見せかけて殺そうとし、似ている実兄が誤ってひき殺されしまうこととなった」と言う。
[中学退学]

戦後、産業経済は疲弊し、社会も混乱していた。政治の世界でも米ソが戦後の世界支配を狙い、さまざまな情報戦が繰り広げられていた。旧制中学も「学制改革」により大きく変わろうとしていた。昭和22年(1947年)「学校教育法」が制定され、翌年4月より旧制中学は廃止され、新制高等学校が発足、旧制中学の4年生は新制中学の1年、5年生は2年になった。

その混乱した教育改革の流れの中で藤室さんは中途退学の道を選ぶ。大きな理由は学資が続かなかったことである。戦病死が認められた父君の遺族恩給により生活していた一家であるが、GHQの指令により恩給が廃止された。国の財政が負担に耐えられなかったことや、高級将校の戦争責任が問われたためであった。当然、長男である藤室少年に一家を支える役割が襲いかかってきた。

制定された「学校教育法」の目次

[問屋の親分]

戦後の混乱期でもあり、まともな就職先はなかったが「国民全体が食うに困っていた時代であり、生きていくだけで精一杯の人もいた。苦痛ではなかった」と言う。藤室さんにとって幸いだったのは蓄積してきたラジオ技術が生きたことであった。さまざまな仕事をやった。戦後の娯楽はラジオを聞くことであった。壊れたラジオの修理もあったが、自作したラジオも飛ぶように売れた。

やがてラジオメーカーも本格的にラジオの生産を始めたが、自作ラジオははるかに安く出来た。後に「電気店」といわれるようになる町の「ラジオ屋」さん、戦前のハム、ラジオ技術をもつ「ラジオ少年」の多くが必死にラジオ受信機を作り生活の糧や小遣にしていた時代であった。

ある時、闇屋の親分が地方に行き旧型の真空管を大量に仕入れてきて「これでなるべく球数の多い高級電蓄を組み立ててくれ」と言う。その注文を受けた藤室少年は何台かの電蓄を作ったが「お蔭でUY-247、UX-245、UZ-2A5などの時代物の真空管を使う機会に恵まれた」と言う。

[紅茶とケーキの謝礼]

昭和23年(1948年)逓信省の「電気通信技術者放送受信級」検定試験を受験して合格。この結果、鎌倉市内にあった「ラジオ屋」さんから声がかかり、ラジオの修理の仕事が舞い込む。ところが「それまで続けていた素人ラジオ修理屋のような仕事の足下を見透されたのか、ケーキと紅茶程度の謝礼でごまかされることもしばしばだった」と当時を思い出している。

藤室さんはどんな修理にも挑戦した。新しい修理に取り組むのが楽しかった年代である。電源トランスが焼損したラジオ受信機の修理では手巻きではトランスが直せず、横浜の小さな工場に依頼したことがあった。「鉄心の寸法、一次、二次それぞれの電圧、電流容量のメモを渡すと、計算尺でさっと計算して巻き線を作ってくれた」とプロの力に驚く体験をしている。

ところが、その巻き線を受け取った帰りに横須賀線電車の網棚に忘れてしまい「すぐに調べてもらったが誰かに持ち去られてしまい。再度、注文したため大赤字になった」こともあった。GHQ傘下の米英軍人家族は日本人の高級な住宅を接収して住んでいた。ところが、ラジオが故障していても直す当てがないため、ハウスキーパーを通じて藤室さんに修理依頼がくるようになった。「しばらくはそれで稼いだりしました」と言う。

[東京・渋谷に転居]

昭和25年(1950年)朝鮮戦争が勃発した年である。日本の産業はこの戦争による軍需により、敗戦の痛手から立ち直ることになるが、まだ一般家庭の貧しさは続いていた。この年、一家は東京の渋谷に転居する。姉の嫁ぎ先に同居したのである。近くにはGHQ関係者の住むワシントンハイツがあった。その一角だけは芝生が青々と生えており、1戸建て住宅、独身者のための鉄筋のアパートが立ち並んでおり、別世界の様相であった。

アルバイトのような自営業のような仕事をしながらも藤室さんは短波受信を続けていた。「どういうわけか渋谷は鎌倉より電波受信のロケーションは良く、南米ブラジルからの電波が近距離のように聞こえた」と言う。ただ、ワシントンハイツにJA2AG局がおり,その強力な電波に邪魔されることも多かったらしい。

GHQ本部が置かれていた第一生命ビル

渋谷からワシントンハイツ(左後方)を望む。昭和27年(東京都のホームページより)

一部の例外を除いて、太平洋戦争が開始される前からアマチュア無線の免許取得や再免許は許可されず、開戦と同時に電波を出すことは禁止された。戦後も免許されないままであることは先に触れたが、GHQはFCC(米連邦通信委員会)の免許をもつ米人に対しては便宜を図り、運用を認めていた。

そのため、彼らは自由に電波を出すことができた。当初はJ2~J7のプリフィックスを使っていたが、昭和24年1月1日からはJA1~JA9のプリフィックスに変更していた。ちなみにアマチュア無線が再開されてからはKAに代わったがそれが問題となったことは、別の連載でもしばしば触れている。