[早かったFM受信機]

そのころ藤室さんは「28MHz以上のアマチュア無線を受信していると時々FM(周波数変調)の電波が入ってくる。そこでFM受信機を作らなければと感じた」と言う。ところが本格的なVHF・FM受信機を製作するためにはどうしても測定器から作る必要がありそれに挑戦する。

「エーコン管UN-955で発振回路を組み、レッへル線によって波長を測定して100MHzから200MHz程度の吸収型周波数計の校正を行った。それを利用して144MHz帯付近を受信する超再生受信機を作り上げたが、少し低い周波数で航空無線らしい電波が聞こえる程度だった」と言う。アマチュア無線でFM交信に注目が集るのは昭和30年代の半ばであることを考えると、藤室さんの挑戦は早かったといえる。

徳間・庄野さん共著の「受験から運用まで アマチュア無線」

[テレビ受信機に挑戦]

昭和25年(1950年)NHK技術研究所はテレビジョン実験放送を開始した。藤室さんは実験放送の送受信を見学したが「せめて音声電波だけでも受信したい」との思いに駆られ、コイルを巻き直して102MHz-108MHzが受信出来るようにし「簡単にテレビの音声だけは聞くことが出来るようになった」と言う。

この挑戦の結果、その副産物として「吸収型周波数計の目盛りが正しいことも確認でき、さらに水晶発振子を使って基本波、第二高調波、第三高調波、第四高調波・・・と正確に目盛りを入れることができた」と喜んだ藤室さんは、この出来あがった“ものさし”を利用して「グリッドディップメータ-の校正を容易に行うことができ、無線設備の自作や調整は自信をもって実行出来るようになった」と言う。

[頭と足と努力]

テレビ受像機、VHF、FM受信機の自作にはIFT(中間周波トランス)から設計製作する必要があった。そのためにはアルミケースを入手しなければならないが「メーカーは自社のマーク入りのケースを分けてくれるはずはなく、かといって大量発注することも出来ない」と悩みながら秋葉原付近の昭和通りの商店を軒並み覗きながら歩いた。

そこで、35mm角、80mm高のケースを卸しているのを見つけ「数十本単位なら販売しよう」と言われ、友人の分も含めて確保した。ベークライト製のボビン、薄板を購入して加工し、後はμ同調用のコアが必要となった。そこでTDK(東京電気化学)の事務所を訪問「やはり数十本単位なら分けます」と言われて、必要量を購入した。

端子はハトメラグを使ったが「このIFTのように各種の必要部品を自作できた良き時代でした」と藤室さんは振り返る。測定機も手に入る部品を活用して自作。「お金が無い分だけ頭と足と努力で品物を作る喜びは苦労が多かった時ほど大きかった。バスや電車に乗っていても窓から見つけた廃品回収業者に途中下車して駆けつけたりした」と楽しかった当時を語る。

[部品も修理・改造]

藤室さんはラジオや電蓄を修理するだけでなく、部品そのものも修理して使った。戦時中に製造された真空管では「材料不足のためリード線に銅ではなく鉄を使っており、腐食断線していることが多くそれを修理再生することも手がけた」「絶縁低下のペーパーコンデンサーは古鍋にパラフィンを入れて溶かし、その中で天ぷらのように煮て復活させたりした」らしい。

「もっとも台所でやると臭いので焚き火か、屋外に電熱器を持ち出してやる必要があった」と苦労したことも語っている。電話線の工事をしているのを見つけると「近くで待っていて切断された紙巻銅線が落ちてくるのを拾い集めて利用した。真空管のリード線修理には格好の線となり、磨くことなしにハンダがきれいにのってくれた」と言う。

JA3AAの島伊三治さん

[テレビ受信機の修理]

テレビの実験放送が始まると米国製の受像機が輸入され始め、それを日本で受信できる日本規格に直して欲しいという注文が増え出した。「実験放送のため放送時間が短く、その間に受信しながら調整する必要があり苦労した」と言う。そのため、3インチのオシロスコープを組み立てることまでしている。

輸入テレビ受像機を所有しているのは米人家庭か、裕福な日本家庭。「高級なラジオや電蓄の時も同様であったが、応接間で大仕事をするのは大変で、じゅうたんに焼け焦げを作らないように大量の新聞紙を敷き詰め、さらにその上にシーツを広げて作業した」と言う。

古い受像機の場合には中が暖かいため虫やねずみが入り込み、その死骸が出てくることもあったらしい。その場合は掃除に1時間程度もかけることになるが「汚くてにおいもひどいため、掃除機を借りて使うわけにいかず苦労した」と言う。また、小さな子供は興味を持って近くにくるため「感電や怪我をさせないことにも気を使う」ことも多かった。しかも、アンテナやフィーダー線の修理では「高所に登ったりする必要があり出張修理は割が合わなかった」らしい。

[アマチュア無線免許取得]

昭和27年(1952年)7月27日、全国の30局にアマチュア無線予備免許が与えられたと新聞が報道した。その中に友人の山中一郎(JA1AK)さんの名前を見出した時「しまった。まだ免許は大分先になると思っていたのに・・・と慌てた」と言う。実際にはアマチュア無線技士の試験は前年の6月26、27日に行われていたが、藤室さんはそれを見落としていた。

当時のアマチュア無線に関する情報は無線雑誌等を丁寧に見ておかない限り伝わらず、国家試験が実施されたのも知らなかった人も多かった。ちなみに予備免許が下りたことを知らなかった人も少なくなかった。JA3AAの島伊三治さんは他人が読んでいた当日の新聞で知ったし、JA2WA(後にJA9AA)の円間さんに至っては、しばらく後に他の人同士の交信で「金沢の円間さんも予備免許をもらった」と話しているのを聞いて知ったほどである。

JA9AAの円間毅一さん