[アマチュア無線2級に合格]

アマチュア無線技士の免許取得に出遅れた藤室さんは、急いでその年の10月に行われた第2回の試験を受ける。この時の合格者は1級27名、2級48名であり、合格した藤室さんは翌昭和28年(1953年)1月に従事者免許を受け取り、無線局開設の申請書類を作り、関東電波管理局に持参。「3月の初旬になってしまっていたが、自分のイニシャルであるFMをもらうつもりであった」と言う。

当時の担当係長は幸運にも鎌倉クラブで顔見知りであった徳間敏致(JA1AY)さんで、アマチュア無線については理解があり、若いハム志望者に親切な方であった。「やあ、藤室君も申請かね。希望のコールサインは何かね」と聞いてくれたのでびっくりしたと言う。「実はFMが欲しいのですが、今どこまでいってますか」と聞くと「FA、FBが予約済みでEY、EZが残っている」と言う。

「Eはトンだから不利だなあ、とするとFMを予約するとだいぶ先になりますか」「1カ月ぐらいかかるかな。FCではどうかね」「うーん、FC、トトツート、ツートツート、なるほど言いですね。JA1FCを予約させてください」というやり取りの後、JA1FCに決まった。ちなみに徳間さんは当時、関東電波監理局の郵政技官。庄野久男(JA1AA)さんと共著の「受験から運用まで アマチュア無線」を無線従事者教育協会から発刊してもいる。

[落成検査合格]

予備免許の書類は中旬に届いたが「144-148MHz、F3、15Wの送信機とその周波数帯の受信機しか完成していなかったため、急いで他の周波数の設備に力を入れ、試験電波を出したりしていた。50-54MHz帯では時々見通し距離以上での受信ができたとの話もあり、事実、バンドの上下の周波数である業務局の電波が聞えるので、九州や北海道と通信できる可能性もあると期待していた」と言う。

7月7日に落成検査に合格し17日に本免許になる予定だった。ところが14日に外出から帰宅して、受信機のスイッチを入れると予想外の交信となった。このことはこの連載の冒頭に紹介しているが、この交信距離はそれまでには予想もされなかった大記録であった。その当時はEs層が出現しており、この記録が出来たといえる。

事実、この月の7月19日には伊東裕文(JA3BQ)さん、広田肇(JA3AG)さんがJA1の12局と交信、あるいはレポート交換に成功している。また、内田馨(JA2BW)さんは野上巌(JA1DW)さんと交信するなど、続々50MHzでの交信実績が作られている。ただ、当時は予備免許中は試験電波の発信は許されても交信は本免許まで許されない規則であったため、先に紹介した「日本アマチュア無線のあゆみ」は欄外で「この記録にはわずかな懸念も当時あったが、それは後の記録の中に埋没している」と触れている。

VHFで記録を作った藤室さんの当時の運用振り

[就職]

昭和20年代後半になるとラジオ受信機はすでに電機メーカーが量産をを始めつつあり、自作の時代ではなくなりつつあった。昭和28年(1953年)藤室さんはローヤル貿易への勤務を決める。同社は中古外車の販売とレンタカー事業が本業であったが、別にカーラジオの製造、修理をする工場をもっていた。「当時は駐留米人向けのさまざまな事業があり、その会社もその一つだった」と藤室さんは言う。

同社はまた、片手間に輸入テレビ受像機のチャンネル改造や修理を行い、一部販売もしていたが、主要社員が独立してしまい急きょ社員募集が行われた。このころ朝鮮戦争も休戦に向かいつつあり、戦後のわが国経済産業復興につながった軍需も減りつつあった。このため「不況の折りで新聞広告を見て多数の求職者が押し寄せていた。面接、口頭試問、実地試験が行われ、2割弱が採用された」と藤室さんは記憶している。

小型のカーラジオではあるが当時はまだ真空管の時代。藤室さんにとってラジオの製作や、輸入テレビの改造はプロである。試験は最上位で通り入社。「それまでの自営よりは気楽であった」が設計、調整、修理、取り付けなど何でもこなす藤室さんに仕事が集中し「忙しい毎日で残業の連続だった」とそのころを思い出している。

カーラジオなどに多用されたミニチュア真空管

[事業縮小]

同社のカーラジオ部門は、GMシボレーの総代理店である太平洋自動車と日本のトヨタ系2社に“オプション純正”の製品を月100台程度の規模で生産納入していたが、しばらくすると同業他社が新製品をユーザー企業に売り込み始め、さらに米国から"ライン純正"の製品が大量に輸入されだすなどが原因で受注が急激に減少。加えて、再び古参社員が大勢の社員を連れて独立する事件があり、カーラジオ部門は廃止となる。

藤室さんは当時のことを「一時期はシャーシ、ケース、パワートランス、各種コイルも内製化し、鋳物、ダイカスト、めっき、塗装は外注するなど、高性能な製品として信頼を得ていた。mt管、GT管の良品を使用すれば故障も少なく、高温対策でもその後の半導体と比較しても設計、製作は楽でした」と語っている。

[無線機製造の下請け]

その後、藤室さんは再びラジオの自作をしたり、職業安定所に通い計測器修理の小さな会社で仕事をした後、昭和31年(1956年)に富士通の下請け会社である吉河電機で働くことになる。ここでは60MHz、150MHzのVHF無線機の開発、試作、製造、据え付けなどを行った。時には富士通社内で測定作業を手伝った。

藤室さんにとっては得意の分野であり「仕事は楽しかったが、とにかく忙しかった」という。そのため、アマチュア無線では50MHzで海外と交信できる素晴らしいコンディションの時期であったが「オーストラリア、アメリカ、カナダくらいしか交信できなかった。また、アフリカは聞こえていたものの交信できなかった」と悔やんでいる。