[日産入社]

吉河電機に勤務して約1年半後に藤室さんに日産自動車に来ないかとの話しが舞いこむ。日産の自動車製造部門に勤務している藤室さんの義兄が「エンジン回りの機構をコンピューターでシュミレーションする時代であり、エレクトロニクスに詳しい人を必要としている。応募したらどうか」という。

このころ、エレクトロニクスの技術者はコンピューターやAV機器の開発者として引き手あまたであり、大手電機メーカーが採用してしまい、自動車メーカーの日産では採用難であった。面接を受けた藤室さんは「臨時社員であればお断りしますと伝えたところ、正式社員として採用された」という。昭和32年(1957年)藤室さん26歳の時である。ところが、勤務している吉河電機が「やめてもらっては困る」と引き止める。

[喀血・入院]

困った藤室さんは日産には4月1日入社の予定を5月21日まで延ばしてもらうとともに、その後は日産の仕事が終わると夕方から吉河電機に駆けつけ、従来の仕事をする生活を7月まで続けることになった。このような無理な生活がたたり、しばらくすると喀血する。それでも「家族を養っていかなければならない。少しぐらい具合が悪くとも」と仕事を続けていたが、翌年の健康診断で肺結核と判定されて入院を指示される。

このころ、結核患者は多かった。戦前、戦後しばらくは「死の病」といわれ恐れられていた。戦前は「大気安静と栄養の摂取」が唯一の治療法であったが、戦後になるとストレプトマイシン、パス、イソニコチン酸ヒドラジッドの3薬による化学療法が確立して患者数は大きく減少した。入院した藤室さんも化学療法を考えたが「後遺症が怖いのと全快するまで時間がかかるため、手術を選んだ」と言う。

[手術は成功したが]

手術により、侵されている肺の一部を切除することで、回復は早くなるがまだ成功率は高くなかった。しかし、藤室さんは「早く退院し働かなければならない。そのために危険を承知で手術を選んだ」という。昭和34年(1959年)6月のことである。手術は成功したが別の災難に襲われた。

手術のために大量の輸血を受けたが、当時は血液の検査が十分でなかったためにC型肝炎を発症する。「その当時はまだ"売血"制度があり肝炎患者の血液が混じっていたのが原因だった」と言う。"売血"とは輸血用血液不足を補うために保健所が採血のたびに対価を支払うもので、生活に苦しい人が生活の足しにしていたケースもあった。

C型肝炎は全治まで時間がかかる。「早期退院のために選んだ手術が逆効果だった」と当時を悔やむが、結局2年ほど入院を続けることになる。「何もすることがないため、病院内のラジオ、テレビに加えてレントゲン装置まで修理した。院内の床屋から頼まれてガスヒーターを直したこともある」と得意の技術力を生かした。

[コンピューター]

2年間は休職扱いとされ、その間は「保険で治療費が支払われ助かった」と言う。日産に復帰した藤室さんは夜間大学に通い、さらに技術を学ぼうと、主任に相談する。すると、海軍機関学校を卒業していた主任が「別に大学に行くことはない。実力を発揮すれば良いではないか」と諭してくれてあきらめている。

仕事は真空管を使ったアナログコンピューターの製作であった。「英文のコンピューターの解説書を渡され、これで作ってくれ」と言う指示である。今からみると、日産がコンピューターに取り組み始めたのは極めて早かった。コンピューターの歴史を調べてみると、米国のIBMが初めて商用プログラムを内蔵したIBM701を販売したのが昭和27年(1972年)である。

日本では昭和31年(1956年)に富士写真フィルムと当時の通産省の技術総合研究所が、カメラ用レンズの設計用に作り上げたのが最初といわれている。ただし、藤室さんがコンピューターに取り組んでいたころはデバイスとして真空管を使用していたが、ぼつぼつ半導体に移りつつある過渡期でもあった。30年代後半には急速にトランジスター、やがてIC、LSIが採用されるようになっていく。

[コンピュータの活用]

藤室さんが所属したのは設計部実験課であった。東芝製の12AX7、12AU7、6AR5を使い演算増幅器を10台組みたてるとともに、5V4-G、5R4-GY、6AS7-Gなどを使用した安定化電源を組みたてている。もっとも「正式なアナログコンピューターは東芝製を使ったが、真空管式のため保守に多くの時間を費やした」と言う。

出来あがったコンピューターは車の走行シュミレーションなどに活用された。「コンピューターをトラックに載せて東大の生産技術研究所に運び込み、回転ドラムの上に車を乗せて車輪を動かして、回転をグラフとしてとらえることをやったりした」と言う。この時に記録方法として新しいことを実施した。「従来のように記録紙にペンで描画するのではなく、印画紙に光で描画させた」ことを藤室さんは記憶している。

経理部門からは「経理計算に使えないか」と打診されたが、アナログであり「目的が違うので無理と答えた」こともあった。その後、社内でコンピューターが盛んに活用されるようになり「技術系はIBM、経理は日立、工機工場はユニバック製をそれぞれ使っていたため互換性がなく、ソフトでカバーした」と言う。

やがて、ゲルマニュウムトランジスターを使用したDEC(デジタル・イクイップメント・コーポレーション)のミニコンPDP-8を自動製図機の制御に用いることになったが「やはりそのころは保守には時間が取られた」らしい。藤室さんは「デバイスはシリコンTR、IC、LSIへと進歩したが、表示には数字表示管を使ったため、定年まで真空管との縁は切れなかった」と言う。

DEC社のミニコンPDP-8シリーズ