[日産を定年退職]

日産での勤務は実験課が実験部に昇格、より新車の開発の基礎部門で活躍する。そのころになると、大学で電子工学を学んだ若い社員が中央研究所で活躍し始めたが、藤室さんら現場の電子部門との意見の違いでしばしば論争することになる。「我々は現場育ちであり、設計、製造も精通している。研究所は机上の論理が多すぎたからである」のが原因であった。

昭和50年代になると、車へのエレクトロニクス技術の採用が急速に増え「カーエレクトロニクス」時代が始まる。そのなかで、藤室さんはカーラジオ、カーステレオ、カーナビケーションなどの華々しい部門ではなく、いわば「ファクトリーオートメーション」「NC制御」の分野で活躍する。自動製図機、5軸加工機を導入して試作のスピードを高めたり、車体の強度試験なども手がけている

その後、電子機能訓練センターに移る。後身にこれまで蓄積してきたノウハウを教える部門である。平成2年(1990年)、翌年の定年を前にして「子会社で引き続き仕事をして欲しいとの話があったが、残る人生を本来のエレクトロニクス分野の仕事をしたい」と藤室さんは断っている。そのような時にJARL技術研究所勤務の話しが舞い込む。

[JARL技術研究所]

平成3年(1991年)1月31日、30年あまり勤務した日産を退職。この30年間は日本の高度成長、オイルショック、バブル経済と続いた時期であるが、同時にわが国の自動車産業が、敗戦から立ちあがり欧米の自動車産業と肩を並べるまでに発展した時期でもあった。藤室さんは「そのような時期に自動車産業を底辺で支える仕事をし、いささかなりともお役に立ったことは感無量」と振り返っている。

このように自動車企業で働く一方で、藤室さんはアマチュア無線との関わりも続けてきていた。JARLでの活動は目覚しく、技術委員会委員、周波数委員会委員を務め、また「JARL NEWS」の編集にも力を貸してきていた。「JARL NEWS」の編集はその発行準備のための機関紙発行準備委員会時代からたずさわった。

創刊第一号と第2号の「CQ Ham radio」

[JARL NEWS]

JARLは戦前、A4版サイズの「JARL NEWS」を発行していたが、戦後、昭和21年(1946年)に当時の科学新興社に依頼して「CQ ham radio」を刊行、その中に「JARL NEWS」のページを設けた。その後同誌の発行は新設された「CQ出版社」に移ったが「JARL NEWS」は同様な形式のままであった。

昭和30年代半ばになると、JARL独自の情報伝達物を作ろうとの意見が出始め、タブロイド版新聞の「JARL NEWS」の発行が検討される。この独自の機関紙づくりのプロジェクトチームに藤室さんも関わりあっていたことになる。さらにレピーター研究委員長として、その後全国各地にレピーターを設置する活動にも指導力を発揮している。

[レピーター問題]

当時、アマチュア無線のレピーターについては、わが国は他の先進国に対して遅れをとっていた。実は、レピーターの設置はアマチュア無線衛星と深く結びついていた。このアマチュア無線衛星でもわが国は遅れをとっており、JARLは他国から「衛星を利用するだけで経費負担はしてくれない」と批判されていた。しかし「国産の衛星を打ち上げるためにはまずレピーターが認められることが必要であった。」

そのため、JARLは昭和55年3月に藤室さんを委員長としたレピーター研究委員会を立ち上げ、さまざまな角度から研究を始めた。2年後の3月ようやく第1号が設置され、免許された。その後、レピーターはJARL直轄局と団体局の2方式に分けて全国的に設置されていく。

このような課程を経て、現在は全国に約1700のレピーターが建ちあがったが、なかには遅い免許に業を煮やした地区では無免許のレピーターを設置した所もあり、藤室さんは「現地に出向き、レピーターを降ろす折衝に出かけたこともあり、何とか説得できたこともあった」と当時の状況を話す。いずれにしてもレピーターの免許はその後のアマチュア無線衛星の打ち上げにつながっていく。

JARL事務局の入居しているビルと1階にある展示室

[JARL展示室勤務]

このようなJARLとのつながりからの研究所入りであった。待遇は「課長待遇」であり、展示室の勤務となった。藤室さんは展示室勤務について「好奇心と記憶力では人に負けないので小規模ながら図書館機能と博物館機能を併せ持つ展示室勤務はうれしかった。また、海外からのお客さんもお出でになるため英検2級の下手な英語力ではいささか心もとないかも知れないが、まあ即戦力にはなるであろうと判断されたのでしょう」と自著の「真空管半代記」に記している。

JARL展示室は、JARL事務局がそれまでの「CQ出版社」ビルから同じ東京・巣鴨の「松岡」ビルに移転した昭和55年3月に設けられ、それまで集められた古い自作無線機、部品、さらに図書や文書類が整理されて、一般公開されるようになった。しかし、その後も続々と関連物が集り、その整理はJARLにとって大事な仕事になっていた。