[学徒動員を経験]

1932年(昭和7年)2月17日、兵庫県津名郡都志町(現在の洲本市)で、3人兄弟の長男として生まれた濱田さん。6歳になった1938年4月に都志尋常小学校に入学する。その頃から戦時色が強くなり、1941年に施行された国民学校令によって、濱田さんが3年生に上がる際、都志尋常小学校が都志国民学校に改称されている。

1944年3月、濱田さんは都志国民学校を修了し、翌4月、洲本市にあった兵庫県立洲本工業学校の機械科に入学した。この学校は元々1929年に開校した洲本商業学校であったが、この1944年から国情を反映して工業学校に変わり、そのため濱田さんらが工業学校に入学する初めての生徒になった。

入学はしたものの、当時はすでに太平洋戦争が激戦を極めており、2学期になると毎日、山に行って芋掘りや壕堀を行うことになり、授業どころではなかった。さらに、1945年に入ると戦争の拡大によって発生した国内の労働力不足を補うため、閣議決定によって、1年間の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられたた。2年生になった濱田さんは、4月から淡路重工業(株)に動員され、小型旋盤で戦闘機の19mm機関砲の外殻を作った。

[商業科に進む]

1945年8月に太平洋戦争が終わり、2年生の2学期からようやく授業が行われるようになった。さらに1年生と、2年生の1学期は敵国語にあたる英語は禁止とされていたが、終戦後2年生の2学期から英語の授業も始まった。3年生になるときには、商業科が復活し、生徒は工業科か商業科かどちらかを選択することになったが、濱田さんは商業科に進んだ。しかし商業科では、簿記、商業経済や、民法、商法などの法律関係の授業がほとんどで、数学などは週に1時間しかなかったという。

この頃の濱田さんは、もっぱら、模型電車を趣味としていたが、徐々にラジオにも興味を持ち始め、4年生〜5年生の頃には並四とか高一を作った。終戦時、町内会には100軒ほどの世帯あったが、ラジオは1台しか無く、そこに集まって皆で放送を聞いていたので、自分でラジオを作ったらおもしろいと考えたのが理由だった。部品に関しては、当時はラジオ屋に行ったら、真空管やパーツを売ってくれ、入手は難しくなかった。

1949年3月、5年生を終えるとき、5年で卒業する場合は旧制中学校卒業と見なされて就職もできたが、もう1年通えば高等学校卒業の資格が得られるため、濱田さんは進学を決めた。ちなみに入学時に110名いた同級生で進学したのは商業科38名と機械科15名のみで、他の同級生は5年で卒業した。

濱田さんが6年生(高校3年生)になるとき、学校名が兵庫県立洲本実業高等学校と改称されたことに伴い、1950年3月に卒業した濱田さんは、洲本実業高等学校商業科の第1回卒業生となった。就職は父親の薦めで淡路土建(株)に就職した。入社1年目は現場作業員として働き、3年目(1952年)の10月、明石市内にある自動車運転試験場で小型自動車運転免許を取得した。会社近くの球場のグランドで特訓した成果だった。「助手だと荷台に乗るので冬が寒く、早く免許を取りたいと思ってがんばって練習しました」と濱田さんは話す。運転免許取得後は同社の小型トラックの運転手となった。

[無線従事者免許を取得する]

その頃、濱田さんはラジオに熱中していた。0-V-1等を作ってBCLを始め、ラジオインドネシア、BBC、モスクワ放送など、主に海外局による日本語放送などを受信し、ベリカード(受信証明書)を集めた。当時濱田さんは、「無線と実験」や「初歩のラジオ」などのラジオ雑誌を読んでいたため、アマチュア無線が再開されたことを知って、准員としてJARLに入会した。JARLからはSWLナンバー「JA3-410」を割り当てられ、自作のラジオで受信できたアマチュア無線局に対して、SWLレポートを送るようになった。

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濱田さんが使用したSWLカード。

濱田さんはSWLを続けながら、アマチュア無線技士の資格を取得すべく勉強を行い、1954年6月、守口市にあった大阪電気通信高等学校で開催された第二級アマチュア無線技士国家試験を受験し合格。同年9月に(旧)2アマの無線従事者免許を取得した。その後11月に無線局の開局申請を行って、翌1955年1月に予備免許JA3PXを受領した。申請した周波数と電波型式は、3.5MHzのA3と、7MHzのA3であった。

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11月20日に提出した無線局免許申請書。(※クリックすると画像が拡大します。)

[JA3PXを開局]

1955年3月10日、落成検査の日がやってきた。濱田さんは万全の準備をして近畿電波監理局(現在の近畿総合通信局)からやってくる検査官を待った。やがて2人の検査官が船とバスを乗り継ぎ、測定器を携えてやってきた。濱田さんは測定器を運ぶためにリアカーを引いてバス停まで迎えに行った事を覚えている。

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開局5ヶ月後の濱田さんのシャック。終段は42Sのハイシング変調で出力10W。

検査は、申請していた3737.5kHzのA3と、7050kHzのA3の2波で、自作の送信機から試験電波を発射した。検査には問題なく合格し、この日付でJA3PXの本免許となった。ファーストQSOは3.5MHzで待機してくれていた洲本市のJA3AY東田さんと間で成立し、ログの1行目がその日に埋まった。

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JA3PXのログ1ページ目。(※クリックすると画像が拡大します。)

この当時は一年に一度、定期検査があり、いつも2人の検査官が大阪にある近畿電波監理局からやってきたため、その度に濱田さんはバス停まで迎えに行ったという。JA3PXの無線検査簿によると、1963年まで定期検査を受けていた記録がある。「変更検査に関しては、できる限りこの定期検査に合わせて実施してもらっていました」と濱田さんは話す。

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開局当時に使用した濱田さんのQSLカード。