JA3PX 濱田 繁一氏
No.2 50MHzの運用
[50MHzを始める]
1956年1月、JA1AHS局(当時)が50MHzで、日本で初めてオーストラリアのVK4NG局との交信に成功しニュースになった。その後続々と50MHzでオーストラリアとの交信を成功する局が現れ、濱田さんも50MHzを始めてみたくなった。さっそく受信コンバーターと送信機を制作したが、送信周波数は入手できた水晶の逓倍の関係で50.8MHzとなった。
この送信機で変更申請書を提出し、同年7月に50MHz A3の免許を受けた。免許受領後から、さっそく50MHzの運用を開始したものの50.8MHzという高い周波数を聞いてくれる局はなかなかいなかった。無線仲間だったJA5ER藤本さんからは、DX局は50.8MHzまでは聞いていないよというアドバイスをもらい、さらに3逓倍の水晶片を送ってもらって、50.16MHzで運用できる様になった。
50MHz追加の変更検査に合格した当時の濱田さんのシャック。右側の棚の最上段が50MHzの送信機。
この頃の50MHzは、送信機をVFOで運用している局はほとんどおらず、大多数の局が固定周波数でオンエアしており、局によってそれぞれ送信周波数が異なるため、同一周波数でQSOが行われるケースは少なかった。濱田さんの場合は、送信周波数が50.16MHzで、CQを出し終えると、毎回50.1〜50.7MHzの間をワッチし、応答してくる局を探した。
[オーストラリアと交信]
1958年8月12日、いつもの様に50MHzでCQを出していた濱田さんは、日本人離れした英語で呼ばれた。それまでHFでも海外局との交信の経験は無かったため、これが始めて交信する海外局で、濱田さんはしどろもどろで応答したと言うが、それが前述の初めて50MHzで日本-オーストラリア間の交信を成功させたVK4NGボブさんであった。その後濱田さんは、時間さえあればアンテナを南に向けてCQを出し、オーストラリアを狙った。その甲斐もあって多数のVK局とQSOできたという。
初の海外QSOとなったVK4NGのQSLカード。
その頃濱田さんが使っていたアンテナは、自作の3エレメント八木で、エレメントはアルミパイプではなく、真鍮のカーテンレールのパイプを使った。給電にはテレビ用の300Ωの並行フィーダーを使い、アンテナ調整にはネオン管を使ったという。さらに、このアンテナを回転させるのに、アンテナからシャックまでロープを張った。ロープは滑車で中継し、最後はシャックの壁を貫通させてシャック内から手動でアンテナを回せる様に工夫した。
自作の50MHz用3エレメント八木アンテナ。
しかし、シャック内からはアンテナの向いている方向が目視で確認できないため、パイロットランプと、トランスの巻き線をほどいて作った17芯の線を使って、16方向を表示する様に自作した方向指示器を作った。この装置でアンテナ方向の確認を行うことで、ほぼ正確な方向に向けることができた。
[淡路島アマチュア無線クラブ]
1957年、淡路島アマチュア無線クラブが誕生し、濱田さんは創立メンバーとして入会した。初代会長はJA3AY東田さんで、その他、2文字局では濱田さんの他に、JA3FY井筒さん、JA3HL鎌田さんらがメンバーとして名を連ねていた。淡路島アマチュア無線クラブでは、その後JA3YAI、JA3YCDを開局し、移動運用など活発な行事を行っており、濱田さんは積極的に参加した。
淡路島アマチュア無線クラブのメンバー。後方左から2番目が濱田さん。
特に、毎年8月には徳島県の剣山によく移動した。この頃濱田さんは8ミリ映写機に凝っていて、移動運用の風景などを撮影した。録音は別の局が担当し、淡路島に帰ってきてから編集し、ナレーションも入れて映画に仕上げ、クラブミーティングで上映した。その映画は、ビデオテープにコピーして今でも保管している。剣山の他には、奈良県の大台ヶ原にも移動したという。
開局の頃は3.5MHzと7MHz、そして1年後に50MHzを追加したが、その後はさらに144MHzも追加して、この4バンドでアマチュア無線を楽しんだ。その中でも一番力が入っていたのは50MHzだった。
1958年10月にQSOしたオーストラリア領パプア(現在のパプアニューギニア)のVK9XK。
[新2アマ移行試験に合格]
1958年、法令が改正され、旧2アマ資格者は5年以内に新2アマへの移行試験に合格しないと新4アマに格下げになることなった。これは、旧2アマはモールスコードによる電気通信術の試験がなかったが、新2アマには新たに電気通信術の試験が備わったため、旧2アマ資格者は電気通信術の移行試験をパスしないと、新2アマとは見なされない様になったからだった。
濱田さんは、同じ淡路島アマチュア無線クラブに所属していたJA3AWK古宮さんからテープレコーダーを借りて、モールスコードを聞く練習を行い、1960年の移行試験に合格した。
当時はアワードも狙っていた。写真は受賞したJCC100と、その申請に使ったQSLカード。
[一級建築士を取得]
この頃は、仕事上にも変化があった。1956年には仕事が建築部に変わり、仕事をしながら建築士の勉強を行った。しかし濱田さんは商業科の卒業で、在学中は数学の授業が週に1時間しか無く、学校では習っていないと同様な状態だったため、ほとんど独学で勉強したという。努力の甲斐があって1961年に一級建築士の国家試験に合格。翌1962年に登録した。その翌年1963年には、淡路土建(株)の同系列である建築設計事務所に移籍している。その後、1967年3月にその建築設計事務所を退職し、同年4月に濱田一級建築士設計事務所を開設した。
個人で設計事務所を開設してからは、仕事とパソコンに追われて毎日が忙しくなり、それに伴って濱田さんのアマチュア無線活動はアクティビティが下がっていった。使わなくなったアンテナも全部撤去した。濱田さんの自宅は海岸から100m程しか離れておらず、アンテナなどの金属類は塩害ですぐに錆びてしまうため片付けたのであった。
その頃の濱田さんは、車に144、430MHzのモービル機を積んで、移動中の暇な時間にラグチューを楽しんでいたという。もちろん無線局免許の5年ごとの再免許申請は必ず行って免許を切らさない様にするとともに、アクティビティは低くてもJARL年会費の払い込みは欠かさず行った。