[コンピューターの導入]

濱田さんの設計事務所では、主たる業務である構造計算のために、早い時期からコンピューターを導入している。まずは1970年にビジコン社の電子計算機を購入した。この電子計算機は自分で作ったソフトを走らせることができたため、濱田さんはさっそく構造計算のプログラムを作ってみたが、納得のいく機能のソフトを走らせるにはメモリーが容量不足だった。

オイルショック後の1973年には、大阪で開催された事務機ショーで見た日立のコンピューター・HITAC10II(8Kフォートラン)を導入した。このコンピューターは高価ではあったが高性能で、オプションで導入したテープリーダーからソフトを読み込む事ができた。ただし、現在の様にハードディスクなどからソフトを読み込むのに比べると大差があり、当時はソフトを変更するのに40分くらいかかった。

導入後は詳しい操作方法を習得するため、濱田さんは、大阪で開催されていた日立のコンピューター教室に1週間通ってフォートランを勉強した。そして、その後半年くらいかかって、やっと自分が欲しかった構造計算用のソフトが完成した。しかし、この機種でもメモリーは8Kバイトしか無く、完成したソフトを走らせたところ「メモリー不足」との表示が出てしまった。当時メモリーは高額だったため増設することはせず、ソフトを改変することで対応した。

[次々に入れ替える]

1978年頃には、ようやくその頃からパーソナルコンピューターと呼ばれる様になった、精工舎のSEIKO5700を導入した。このマシンのOSは電卓の関数命令語を並べた様なものだったが、ようやく一連の構造計算ができる様になった。構造計算のソフトの他には、会計のソフトも作ったという。また外部記憶装置の8インチフロッピーディスクドライブによって、プログラムの読み込みや、計算の処理時間が短縮された。

その後は、当時圧倒的なシェアを持っていたNECの9800シリーズ(N88BASIC)等への入れ替えを行い、構造計算用ソフトについては市販品を購入したが、不足している部分は自分で作った。当時のフロッピーディスクドライブは5インチとなっていた。OSはMS-DOSからウインドウズになり、その後フロッピーディスクは3.5インチが主流になる。

個人で設計事務所を開設してからは、仕事とパソコンに追われて毎日が忙しくなり、それに伴って濱田さんのアマチュア無線活動は一時的に下火になっていった。使わなくなったアンテナも全部撤去した。濱田さんの自宅は海岸から100m程しか離れておらず、アンテナなどの金属類は塩害ですぐに錆びてしまうため片付けたのであった。それでもアマチュア無線を忘れてしまうと言うことは決してなく、免許状の5年ごとの更新は必ず行って、免許を切らさない様にした。

[レピータ局開設の手伝い]

1982年、日本でもアマチュア無線用のレピータが免許される様になり、まずは東京のJARL連盟事務局に第1号レピータが設置された。当初はJARL直轄局が各エリアに開局し、その後、一般からの団体局の申し込みを受け付けた。第一回目の受付に対し、実に100件を超える申し込みがありその内130局が承認された。この数からも、レピータ局の免許は待望の制度であったことが分かる。

団体局については、ぞれぞれのレピータ管理団体が機材の調達、設置から維持管理まで行うが、その管理団体の主体は地元のアマチュア無線クラブであった。淡路島でもレピータを設置しようという動きがあり、まずJR3VIが洲本市に開局。それに続いて、濱田さんが管理団体の代表を務めたJP3YCNが1984年10月、三原郡緑町(現在の南あわじ市)の感応寺山に430MHzで開局した。

[感応寺山に設置]

このJP3YCNに開設にあたっては、若いメンバーが起案して、濱田さんに代表者になって欲しいと頼みに来た。濱田さんは、淡路島のアマチュア無線局のためになるのならと快諾し、開設に向けて準備を進めた。設置場所については、発起人の4、5人で、緑町の感応寺山に計画し、母体となる管理団体を発足させたところ、60人以上のメンバーが集まった。

レピータ装置やアンテナ、局舎などの機材は、管理団体のメンバーからの寄付ですべて賄うことができた。設置場所の用地については、感応寺山近くに住むメンバーに地主と交渉してもらい、無償で借りることができた。ただし、当時は設置場所まで道路が通じておらず、実際の設置にあたっては10人程度のメンバーが2日間かけて、セメントや砂を担ぎ上げした。

局舎はコンクリート製の簡単な基礎の上にステンレス製の小屋を作って、それにレピータ装置を入れた。小屋の中は防熱しなければいけないということで断熱材を入れたが、それは濱田さんの専門分野だった。アンテナの設置は、鉄塔やコン柱などは使わず、竹竿を使って簡単に建てた。電源については、従量電灯の設置を電力会社に申請して設置した。

[広域をカバー]

1984年9月に試験電波発射報告を行い、翌10月にJP3YCNの免許が下りた。周波数は439.58MHzだった。JP3YCNはロケーションの良さからカバー範囲が広く、大阪湾を隔てた大阪市内からもアクセスできたほか、西方向の5エリアからも使うことができた。そのため、非常に稼働率の高いレピータとなった。この頃の濱田さんは、仕事が極めて多忙で自宅からはオンエアしていなかったが、車にはモービル機を積んでおり、移動中の暇な時間にはJP3YCNを使ってラグチューを楽しんでいた。

電気代等のランニングコストとは、開局時の寄付の残りで賄うことができた。そのため、JP3YCN管理団体では年会費を徴収することはなかった。1995年に大震災が発生するまでは、毎年、管理団体のメンバーで忘年会などのミーティングを行っていた。

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JP3YCN管理団体のミーティング

1984年の開局から25年間運用した後、2009年に廃止を決め、代表者だった濱田さんはJARLに廃止届けを提出した。一部のメンバーからは廃止を惜しむ意見もあったが、機器が老朽化したことと、自分たちが管理できているうちに責任を持ってきっちりしておこうという理由で、幹部スタッフで話し合った結果であった。25年の間には何度か機器のトラブルはあったものの、技術担当のJA3BEZ川島さんと、機器管理担当のJA3DFP藤本さんが解決してくれた。