[岡山で生まれる]

1935年6月1日、NHKは日本語と英語による1時間の番組を、北米西部、およびハワイに向けて送信した。これが日本で初めての短波による国際放送だった。同年5月5日、星山さんは岡山市で生まれた。星山さんの父親である星山竹三さんは内務省(現国土交通省)に務める、架橋の専門家で、ちょうど岡山で仕事をしていた時のことであった。生後3ヶ月で、父親の転勤により星山さんは東京に戻った。

photo

父の竹三さんが発明して特許を取得した星山式杭支持力計算尺の取扱説明書。

星山家は代々、東京の日本橋に居を構え、明治時代から上槙町(現在の八重洲口付近)で酒屋を営んでいた。星山さんの祖父にあたる星山平吉さんは、自ら名付けた酒名(PALM)の商標の登録まで行うなど力を入れて経営していたが、婿である竹三さんは、酒屋をつぐのがいやで、国家公務員になった。後継者が居なくなったこともあって、酒屋は、星山さんが生まれる4年前の1931年に店を閉めていた。

photo

祖父の平吉さんが登録した商標PALM。(日本洋酒缶詰新聞社刊 大日本洋酒缶詰沿革史より)

星山さんは、生後3ヶ月で東京に戻った後、本郷区(現 文京区)駒込に居住したが、父親の竹三さんは、星山さんが3歳の時(1938年)に結核で帰らぬ人となった。そのため、星山さんは「お父さんの顔は覚えていない」と言う。祖父の平吉さんは、酒屋を閉めた後、駒込で駄菓子屋とたばこ屋を営んだが、1942年に亡くなった。その後は星山さんの母親であるクニさんが、商売を続け、星山さんと3才上の姉を育てた。

photo

2歳9ヶ月の頃の星山さんと父の竹三さん。

[静岡市に転居]

1944年、星山さんが小学3年の時、いよいよ戦況が厳しくなってきたため、子供は疎開しなくてはならなくなった。ところが、学校から指定された疎開先は、星山さんと姉で異なる場所だった。母親は「どうにかしなきゃ」と、亡き父親の友人である知人に相談した。その結果、母親は国家公務員になって大蔵省(現 財務省)に就職した。「駄菓子屋のおばちゃんが大蔵省に転職するなど、今では考えられないことです。」と星山さんは笑って話す。

母親は、すぐに静岡への転勤を命じられ、完成したばかりの大蔵省印刷局静岡工場に勤務することとなった。それに伴って、星山さん一家は静岡市国吉田にあった印刷局の官舎に入居することができ、姉弟は同じ小学校(東豊田国民学校)に通えることになった。これによって、「疎開によって姉弟が別々になることを免れた」と言う。

終戦後、静岡にも進駐軍が現れ始めた頃、星山さんは、母親であるクニさんから「英語を教えてやる」と言われてびっくりしたことがあった。まさか自分の母親が「敵国語」であった英語を話せるとは夢にも思わなかったからである。なんで英語を知っているのか尋ねたところ、「自分は犬が好きだったが、犬の本は英語しか面白いのが無かったので、英語の本を読んだ」という答えが返ってきたと言う。

そのため、「中学校に入学後、初めて受けた英語の授業にもとまどい無く対応できたし、なにより、将来無線をやる際に大いにプラスになった」と話す。後で知ったことだが、母親は、実践女学校(現 実践女子大学)の英文科を卒業していたのであった。後に米国人であるハムの友人が星山家に遊びに来た際、「老婆がいきなり英語で友人にしゃべりかけたので、友人が飛び上がって驚いていました」と笑って話す。

[ラジオとの出会い]

終戦後、星山さんが小学5、6年生の頃、物置の中をごそごそ探していたところ、星山竹三蔵書という判が押してある、亡き父親の本が多数見つかった。その中には正岡子規が書いた野球の解説本などもあったことを覚えている。ほとんどは文学書であったが、その中に1冊だけラジオに関する本があった。またその本には、紙が1枚挟まっており、免許状とかなんとか書いてあった。星山さんは、「これは何か」と母親に尋ねたところ、「それはラジオの受信許可書ですよ」と教えてくれた。

日本でのラジオ放送は、1925年(大正14年)3月22日、(社)東京放送局(現 NH東京放送局)が東京市芝区(現 東京都港区)にあった東京高等工芸学校の仮放送所から初めて行った。周波数800kHzのAMによる放送で、送信機のファイナルはUV204の2本パラレルで出力220W、アンテナは53m長の傾斜型を40m高の電柱から展開したという記録がある。当時の受信機は鉱石ラジオがほとんどで、リスナーは、鉱石の針先を一番感度の良いところに合わせて受信していた。

これは仮放送だったが、同年7月12日、芝区の愛宕山より出力1kWで本放送が開始された。また同年6月1日より大阪放送局が、さらに7月15日より名古屋放送局がそれぞれ仮放送を開始している。母親の話だと、星山家では、愛宕山からの本放送が始まった2日目(7月13日)には自作の鉱石ラジオで放送の聴取を始めたという。当時はまだまだラジオは珍しく、近所の人も星山家にラジオを聞きに来たと言う。

今ではラジオ放送を聴取するのに受信料を支払う必要はないが、当時は、まず管轄の逓信局に施設願を提出して許可を得た後、受信料を支払う必要があった。星山さんが父親の蔵書の中から見つけたのはこの許可書で、正式には各地の逓信局長が発行する「聴取無線電話施設許可書」という名称のものであった。ちなみに受信料は月額1円であった。父親のラジオの本と、この許可書の発見が、星山さんとラジオとの初めての接点となった。

[モールス符号を覚える]

1947年、小学6年になった星山さんはボーイスカウトに入った。ここで新たな展開が訪れる。ボーイスカウトでは、モールス符号を教えてくれた。「習ったのは、欧文と数字だけだったが、子供は暗記力がよいので、すぐにマスターした」と言う。星山さんはホイッスルを使って練習した。ただし、モールス符号は覚えたものの、自分から送ることしか練習する機会が無く、「受信練習はできなかった」と話す。しかし、このモールス符号の習得が、後々星山さんがDX通信に熱中する布石となったのは間違いない。

モールス符号は、米国の発明家サミュエル・モールスによって1830年代に原型が作られたため、氏の名前にちなんでモールス符号と呼ばれている。その後改良が重ねられ、1868年にUTI(現 ITU)で国際規格として承認された。当初は有線通信で、後には無線通信で100年以上にわたって業務の通信に使用された。その後は各種の高速かつ大容量通信手段の発達により、1990年代にはプロの世界からほぼ姿を消し、現在では一部の軍用、非常用として残っている程度である。しかし、アマチュア無線においてはCWファンが多く、今でもメインの通信手段として活躍している。

[ラジオを作る]

1948年、星山さんは、東豊田中学校に入学する。ある日図書館で、「本の名前は忘れてしまったが、ラジオの解説本を見つけ、その本がきっかけでラジオを作りたくなった」と話す。しかし、回りに指導をしてくれる人は皆無だったため、星山さんは、当時ラジオに関する全ての知識を本から得た。そんな状況ではあったが、とりあえず部品を集めて作り始めた。失敗を重ねたが、中学2年になると、ようやくまともな0-V-1式ラジオが作れるようになった。

星山さんは、0-V-1によりCWも受信できたが、モールス符号は覚えているものの受信の練習をしていなかったため、早いCWは解読することができなかった。そのため、姉に協力してもらい、笛を吹いてもらって受信の練習をした。そのうちに受信の能力は徐々に上達していき、「中学3年になると、受信に狂っていた」と話す。

[高校に入学]

1951年、東豊田中学校を卒業した星山さんは、静岡市内にあった県立静岡工業高等学校の電気科に入学した。この静岡工業高等学校は、1918年に創設された県内でもっとも古い公立の工業高校であったが、2008年4月、同じ静岡市内の清水工業高校と合併して校舎も移転し、県立科学技術高校という新しい学校に生まれ変わっている。

高校生になった星山さんは、ラジオの自作も得意となっており、5球スーパー式のラジオを自作しては近所で販売し、小遣いを稼いでいたという。「陽ちゃんの作ったラジオは東京の放送が良く聞こえる」と好評だったと言う。よく聞こえる秘密はアンテナにあった。星山さんは、ラジオを販売する際に設置まで行ったが、古いトランスから取ったエナメル線で、軒下とか室内にロングワイヤーアンテナを張ったため、当時一般的だった電灯線アンテナより感度が良かった。特に、「始まって間もない東京の民間放送がよく聞こえた」と言う。なお、ラジオを製作する資金は、小田原に住む叔母さんが、母親に内緒で提供してくれていた。

photo

高校生時代の星山さん。